地名の由来
| 新地名 | 旧地名 | 地名の由来 |
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| 青森県 | 弘前県 |
明治四年九月五日に、七戸県・八戸県・斗南県・黒石県・北海道館県(松前藩)を弘前県に合併した。 しかし県庁を弘前に置くと館・八戸・斗南とは連絡が殆どつかず交通も不便であることから、 陸羽第一の大港を持ち陸奥・渡島への海運の便もよい青森に県庁を移し青森県と改称された。 後に館、二戸は本県から分離される。 |
| 青森市 | 青森市 |
藩政時代の初期、善知鳥村の東(現在の本町辺り)に磯馴松の生い茂った小高い丘があり、 四季を通じて鮮やかな緑に覆われていた。入港する漁船にはこの丘が好目標となり「あおもり」と 呼ばれたことから、開港奉行の森山弥七郎が藩主に進言して青森と名付けられた。 |
| 浪岡町 |
健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。 地名の由来について詳細は分らず。(調査中) |
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| 平内町 |
アイヌ語で「ピラナイ」が語源とされる。「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は川を意味する。 |
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| 外ヶ浜町 | 蟹田町 |
古代語の鉄「かれ」と積もっている状態を指す「たい」を合わせた「かれたい」から転化したとされる。 |
| 平舘村 |
正治元年(1199)、鎌倉幕府の命により源氏の一族である平舘左衛門尉貞宗が当地に至って、 付近一帯を平定したことに由来する。 |
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| 三厩村 |
源義経が蝦夷地へ渡った(義経北行伝説)際に、三頭の馬を石に繋いだことから三馬屋という地名が生まれ、 後に三厩となった。 |
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| 今別町 |
詳細は分らず。(調査中) |
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| 中泊町 | 中里町 |
明治二十二年四月に、大沢内村・八幡村・深郷田村・中里村・宮ノ沢村・宮川村が合併して中里村となった。 昭和三十年三月に中里町に改称する。 |
| 小泊村 |
明治二十二年四月に小泊村となった。 地名について詳細は分らず。(調査中) |
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| 五所川原市 | 五所川原市 |
万治年間(1658〜1661)のころ、相馬村五所集落のお堂が洪水により現在の五所川原市元町の川岸まで流された。 回収して村に持ち帰ったがその後も二度にわたり同じ場所に流されたため、 相馬村五所の人たちは神様の意思に従うしかないと持ち帰らず、お堂を流れ着いた地に譲った。 お堂を譲り受けた人たちは五所から神様を授けられたとして、この地を五所河原と命名し 後に五所川原に改められた。 |
| 金木町 |
詳細は分らず。(調査中) |
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| 市浦村 |
昭和三十年三月に、相内村・脇元村・十三村が合併して市浦村となった。 |
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| 蓬田村 |
天正十三年に津軽為信によって敗れるまで当地を治めていた蓬田越前則政の姓がそのまま地名となった。 |
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| むつ市 | むつ市 |
昭和三十四年九月に旧田名部町と大湊町が合併して大湊田名部町としたが、 翌年に陸奥国にちなんでむつ市に改められた。 |
| 大畑町 |
蝦夷語の「オ、ハッタル(川尻の渕の意味)」が語源とされる。 |
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| 川内町 |
古くは内檜川と呼ばれていたが、安永六年(1778)に川内の集落名を使うことが許されたという。 |
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| 脇野沢村 |
蝦夷語の「ワ、キサル(岸が耳のように突き出ているの意味)」が語源とされる。 |
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| 大間町 |
大間の「オオ」は深い、「マ」は澗で深い船澗の意味とされている。 |
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| 佐井村 |
詳細は分らず。(調査中) |
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| 風間浦村 |
明治二十一年六月十三日に、下風呂村・易国間村・蛇浦村が合併し 各村名から一字ずつ取って風間浦村とする。 |
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| 東通村 |
下北半島の東側にある通り道であることに由来する。 |
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| 野辺地町 |
アイヌ語の「ノンペジ(野中を流れる清い川の意味)」が語源とされる。 |
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| 六ヶ所村 |
明治二十二年四月一日に、倉内村・平沼村・高架村・尾駮村・出戸村・泊村を合併して 六ヶ所村となった。 |
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| 弘前市 | 弘前市 |
古くは「高岡」「鷹ヶ岡」と呼ばれていたが、寛永五年(1628)八月二十日から弘前に改められた。 弘前の地名の由来について詳細は分らず。(調査中) |
| 岩木町 |
岩木山に由来する。 岩木の由来は明確でないが岩木山神社が延暦十五年(797)の創設なので、 かなり古くにその名が付けられたことになる。 |
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| 相馬村 |
鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる。 |
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| 藤崎町 | 藤崎町 |
古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。 十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる。 |
| 常盤村 |
詳細は分らず。(調査中) |
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| 西目屋村 |
明治二十二年四月に西目屋村となる。 地名の由来について詳細は分らず。(調査中) |
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| 鯵ヶ沢町 |
以下のような説がある。 (1)鯵が沢に上がった。 (2)海にアシカがきた。 (3)いくつかあった沢のうちのひとつの沢名 |
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| 深浦町 | 深浦町 |
海が深く陸地に入り込んだ湊であるためとされる。 |
| 岩崎町 |
明治二十二年に七つの村が合併して岩崎となったが、その由来については明確ではない。(調査中) |
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| つがる市 | 木造町 |
元和八年(1622)、津軽二代藩主信枚が亀ヶ岡(旧舘岡村)に築城を計画したが、この一帯は泥炭地で 資材運搬が困難なため広須(柏村)から屏風山の麓に至る道に木材を敷いて通行したことから 「木作」という地名が付き、明治初年ころに木造に改められた。 |
| 柏村(広須村) |
天正四年(1576)、津軽為信が領内巡視の際に大きな柏の木を見つけ、ここの村名を聞いたところ 蟻巣村であると知らされたが、延々と続く広野を見て広須と改名させた。 後に柏の木にちなんで柏村とした。 |
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| 森田村 |
明治二十二年四月に、大館村・床舞村・森田村・山田村・中田村を統合した際に、中心の森田村を村名とした。 |
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| 稲垣村 |
同村の90%が田地で稲で垣を作ったように見えることに由来する。 |
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| 車力村 |
以下の二つの説がある。 (1)弘元二年(1332)頃、鎌倉幕府の武将である柾子弾正が京都から牛車に乗って来た。 (2)アイヌ語の「サレキ(芦草の意味)」を語源とする。 |
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| 鶴田町 |
天正から慶長にかけ(1573〜1615)、鶴の降り立つ地にちなんで命名されたと言われる。 |
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| 板柳町 |
古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、 板屋野木村という地名となった。 後に板柳に改められた。 |
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| 黒石市 |
アイヌ語の「クジス」「クニス」(蝦夷の住むところの意味)が語源とされる。 |
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| 平川市 | 平賀町 |
昭和三十年三月に、大光寺町・柏木町・竹館村・尾崎村・町居村が合併して平賀町となった。 この地方一帯が鎌倉時代から平賀郡と称されていたことに由来する。 |
| 尾上町 |
正保元年(1644)、この地にあった高砂の尾上の松(雌雄一根から生じた巨大な松)から引用して、 津軽三代藩主信義公が命名したとされる。 |
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| 碇ヶ関村 |
昔から洪水に悩まされ、水の怒りがあるのではないかということで瞋(いかり)と命名し、 関所が設けられた際に「瞋の関」、後に碇ヶ関に転化した。 |
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| 田舎館村 |
以下のような説がある。 (1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。 (2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。 (3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。 |
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| 大鰐町 |
聖徳太子が摂政のころ津軽が皇城の鬼門にあたるとし、悪魔退散、国家安寧を祈願して 阿闍羅山に大安国寺を建て、寺名の大安国寺(おおあに)をそのまま地名とした。 後に津軽為信が大鰐と改めるまで続いた。 |
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| 八戸市 | 八戸市 |
文治五年(1189)、南部光行が源頼朝から糠部の地を与えられたとき、軍馬の育成に適していることに注目して 放牧場を中心とした九つの村(一戸から九戸)が作られた。 このうちの八の村が現在の八戸。 |
| 南郷村 |
昭和三十二年三月に島守村と中沢村が合併して南郷村となった。 |
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| 階上村 |
明治二十ニ年四月に、金山沢村・晴山沢村・田代村・平内村・鳥矢辺村・角柄折村・ 赤保内村・道仏村が合併した際に、岩手県との県境にある階上岳をとって村名とした。 |
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| 三戸町 |
文治五年(1189)、南部光行が源頼朝から糠部の地を与えられたとき、軍馬の育成に適していることに注目して 放牧場を中心とした九つの村(一戸から九戸)が作られた。 このうちの三の村が現在の三戸。 |
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| 田子町 |
城主の田子弾正光康の姓を地名にしたとされる。 |
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| 南部町 | 南部町 |
昭和三十年四月に平良崎村と向村が合併し南部村となった。 |
| 名川町 |
昭和三十年七月に名久井村と北川村が合併し、村名を組み合わせて名川とした。 |
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| 福地村 |
昭和三十年四月に、田部村と地引村が合併した際にそれぞれの役場の所在地であった 福田と苫米地の地名を組み合わせた。 |
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| 五戸町 | 五戸町 |
詳細は分らず。(調査中) 南部光行が作った一戸から九戸のうちの五戸は、現在の五戸町とは異なる。 |
| 倉石村 |
明治二十ニ年に、石沢村・中市村・又重村が合併して倉石村となった。 |
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| 新郷村 |
昭和三十年七月に、戸来村・野沢村・西越地域が合併して新郷村となった。 |
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| 十和田市 | 十和田市 |
十和田湖が国立公園指定され、観光事業の発展を期して昭和三十一年十月に三本木市から市名を変更した。 十和田湖はアイヌ語の「ト(湖)」「ワタラ(崖)」が語源とされる。 |
| 十和田湖町 |
昭和六年九月に法奥沢村を十和田村に改称、昭和三十年四月に十和田湖町となった。 十和田湖はアイヌ語の「ト(湖)」「ワタラ(崖)」が語源とされる。 |
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| 六戸町 |
明治二十二年四月に、折茂村・柳町村・小平村・鶴喰村・犬落瀬村・上吉田村・ 下吉田村が合併して六戸町となった。 |
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| 七戸町 | 七戸町 |
文治五年(1189)、南部光行が源頼朝から糠部の地を与えられたとき、軍馬の育成に適していることに注目して 放牧場を中心とした九つの村(一戸から九戸)が作られた。 このうちの七の村が現在の七戸。 |
| 天間林村 |
明治二十二年に、天間館村・中岫村・花松村・附田村・榎林村・二森村・野崎村が合併して天間林村となった。 |
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| 東北町 | 東北町(甲地村) |
アイヌ語の「カッチウ(投槍または攻撃の意味)」が語源とされる。 都母民族がこの地で投槍を持って戦ったことに起因するとされている。 |
| 上北町 |
昭和三十三年九月に上北郡の中心に位置しているために上北町とした。 |
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| 三沢市 |
以下の三つの説がある。 (1)アイヌ語の「ミボロナイ(水の沢山ある沢)」が語源とされる。 (2)地ヶ浜が見える沢であったため。 (3)三つの沢があったため。 |
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| おいらせ町 | 百石町 |
アイヌ語の「モモイチ(海水の満ちる流れ、穏やかな川)」が語源とされる。 |
| 下田町 |
水田稲作に適していたことに由来する。 |
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