日本の中央は青森だった!?

征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐で陸奥へ進撃した際、 石碑に弓の筈(両端の弦をかけるところ)で「日本中央」(ひのもとまなか)の文字を彫った。 その石碑は「つぼのいしぶみ」と呼ばれ東の果て陸奥の奥に存在する。

上記の伝説は平安時代初期から広く知られ語り継がれており、 「つぼのいしぶみ」は枕詞として過去著名な歌人らによって 当時未知の土地であった陸奥の象徴として和歌に詠み込まれている。 しかし石碑が何処にあるのか、その明確な場所は分からなかった。
 
 

西行法師 陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風
藤原清輔 石ぶみやつかろの遠に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ
源頼朝 陸奥の磐手忍はえぞ知らぬ書尽してよ壷のいしぶみ
和泉式部 請ひかば遠からめやは陸奥の心尽くしの壷のいしぶみ
顕昭 思ひこそ千島の奥を隔てねどえぞかよはさぬつぼのいしぶみ
寂連 みちのおく壷のいしぶみ有りときくいづれか恋のさかひ成るらん
慈円 陸奥の壷のいしぶみ行きて見んそれにも書かじただ惑へとは
岩倉具視 みちのくの野をも山をもわけ過ぎて昔をしのぶつぼの石文
大町桂月 よしやいま石文なくも坪のさとますらたけおのしのばるるかな
 
 
何れの歌も「陸奥の何処かには壷の碑というのがあるらしい、なんだかロマンチックで素敵だね」 みたいな意味だと思う。・・・・・ たぶん。 さて、青森県東北町の坪(つぼ)集落の近くの千曳神社には、 千人の人間が石を引きずって神社の地下に埋めたとする言い伝えがある。

「神代の時に石の札を立て、その石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追放せし事なるに、  悪鬼の来りてその石を土中へ深く隠せしを、神々の集まり探し給ひし所こそ石文村にて、  その石を立てし所は坪村にて有しを、坂上田村麻呂将軍来り給ひ鬼を残らず殺し給ふ故に、  この石は無用とてこの所を七尺掘って埋め給ひその上に社を建てた。  その石を坪村より是迄引きとるに人数千人にて引きしを以て千曳大明神と申すなり」

※千曳 = 千人で引きずる
千曳神社の祭神は「八衢彦神」(ヤチマタヒコノカミ)と「八衢姫命」(ヤチマタヒメノミコト)、 関連して次のような伝承も残っている。

「男(八衢彦神)が壷子(八衢姫命)という女性のもとに通っていた。  ある夜、男は壷子にもう会えなくなると涙のうちに伝えた。  壷子が理由を問うと男は自分が石の精であることを明かした。  『明日土の中に埋められることになっているが、大勢で引いても決して自分(石)は動かない。 お前が曳くならば埋められるだろう』と言って帰った。  翌日、壷子が引くと石は容易く動き、社の下に納まったという」

明治天皇が東北地方を巡幸した際に(1876年)「田村麻呂の石はどうなった?」と尋ねられたことから、 千曳神社の地下を発掘するように政府から命令が下った。 神社の周囲一帯の地面をすっかり掘り起こしてみたが、そのときは石を発掘することはできなかった。 1949年6月、東北町の千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を大人数でひっくり返してみると、 石の地面に埋まっていた面にはハッキリと「日本中央」という文字が彫られていた。

田村麻呂の石「壷の碑」発見〜!\(≧▽≦)/

しかし「壷の碑」は宮城県多賀城市で江戸時代に土中から掘り起こされた石碑が既に存在し、 現在では日本三大古碑のひとつとして国の重要文化財に指定されている。 以下がその石碑に刻まれている文面である。

            西
 
    将 節 也 軍 此         多
    軍 度 天 従 城         賀
    藤 使 平 四 神         城
    原 従 宝 位 亀 去 去 去 去   去
    恵 四 字 上 元 靺 下 常 蝦   京
    美 位 六 勲 年 鞨 野 陸 夷   一
  天 朝 上 年 四 歳 国 国 国 国   千
  平 臣 仁 歳 等 次 界 界 界 界   五
  宝 朝 部 次 大 甲 三 二 四 一   百
  字 狩 省 壬 野 子 千 百 百 百   里
  六 修 卿 寅 朝 按 里 七 十 廿
  年 造 兼 参 臣 察   十 二 里
  十 也 按 議 東 使   四 里
  二   察 東 人 兼   里
  月   使 海 之 鎮
  一   鎮 東 所 守
  日   守 山 置 将

※上記は東北町の「日本中央の碑保存館」にあった拓本を撮影しました ご覧のとおり壷の碑とされる多賀城碑には、多賀城の設置修築の説明および 平城京やそれぞれの国境からの距離に関する記述はあるが 伝説にある「日本中央」の文字など何処にも無い。 そこで東北町の土中から発見された石碑を見てみよう。   もう見紛う事なく「日本中央」の文字がモロンと彫られてるじゃありませんか。 それ以外の記述など一切無く、まさしく伝説どおりの4文字のみ。 何も足さない何も引かない、みたいである意味潔くて男らしい! 彫るというよりは薄く削ったという感じで、正直言うと子供の落書きみたいに下手糞な文字に見える。 しかし伝説では弓の先っちょで引っ掻いて刻んだと言うのだから、 彫りが薄いのもヘロヘロっぷりも納得できる気がする。 逆に多賀城碑の細かく整然とした文面を弓で掘り込むほうが無理なんじゃないの?
  北海道を含めても青森が日本中央だとするのは地理的におかしな話だけど、
千島列島の先まで含めれば結構いい感じに青森が真ん中にくるじゃないか。

当時北海道以北の存在は知られていなかったと言われているが、
天気の良い日に竜飛や大間崎に立ってみれば直ぐ近くに北海道が見える。
大きな陸地が見えるなら、きっと海峡を渡った者もいただろう。

田村麻呂は制圧したアイヌ民族からその情報を得たのではないだろうか。

だいたい東の果て陸奥の奥と言ったら宮城より青森のほうがしっくりくるし、
坪(つぼ)や石文(いしぶみ)といった集落名も偶然とは考え難い。
ではどうして宮城県の石碑のほうが本物とされているのか。 多賀城碑は江戸時代初期に発掘されたのに対し、東北町の碑はずっと遅くて昭和25年の発見である。 同じ青森県の『キリストの墓』の発見騒ぎもあって「また青森か!」と呆れられてる節もある。 そしてなにより、かの有名な松尾芭蕉が多賀城碑を訪れた際、数々の和歌に詠まれた伝説の碑文を千年の時を経て 実際に自分の手で触れることができて超感動したと『奥の細道』の中でこれこそ壷の碑と認定してしまったからだ。 しかし肝心要の「日本中央」の文字が彫られてないのだから、 どう考えても「壷の碑」伝説とはビタイチ合致しないじゃないか。 ゆえに私の判断では日本中央は青森県東北町ということで100%確定であります。松尾芭蕉のバーカバーカ でも・・・・・・・・ そもそも坂上田村麻呂は東北町までは遠征して来てないらしいです。 (岩手県水沢あたりで蝦夷のボスキャラを降伏させて、都へ連行するために引き返してる) つまり東北町の石碑が本物だとしても、文字を彫ったのは青森まで東征してきた後任の文屋綿麻呂ということになる。 征夷大将軍と言えば坂上田村麻呂のほうがメジャーだから、言い伝えられるうちに置き換わったのかもしれません。 また「日本(ひのもと)」とは日本列島ではなく「日出づるところ」を意味し、 東方蛮族の棲む蝦夷地を指しているという説もあるようです。 ※追記:文屋綿麻呂が青森へ進撃してきた当時、この辺の県東南部一帯は     都母村(つぼ/つも)という地名だったそうです。

BACK