源義経が蝦夷へ渡ったとされる地
文治五年(1189)、衣川の高館で藤原泰衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自害して果てた。 しかし死んだのは実は影武者で、義経は生き延びて北海道へ逃れたとされる伝説がある。 これを俗に「義経北行伝説」と言う。 義経(幼名 牛若)は16歳のときに奥州平泉の藤原秀衡を頼って、鞍馬山から移り住んだ。 また兄頼朝と対立し朝敵として追われる身になったあとも、再び藤原秀衝の庇護を受け大切に匿われた。 歴史の通説では秀衝亡きあと頼朝から強圧を受けた泰衝は、父の遺書を守らず義経の館を急襲したことになっている。 ではこの藤原秀衝の遺書とはどのような内容だったのか。「義経の身に危難が迫るようなことになったら、館に火をかけ自刃を装って蝦夷が島(北海道)へ逃れさせるべし」
泰衝は義経を裏切ったのではなく、まさにこの遺書どおりに行動したのではないかというのが伝説の発端である。 この伝説を裏付けるように、平泉から蝦夷へ向かうルート上には義経ゆかりの伝承が数多く残っている。 そのうち青森県三厩村(現在の外ヶ浜町)には次ような伝説がある。兄源頼朝に追われた義経は蝦夷地に逃れようとこの地にたどりついた。 近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻み容易に渡ることは出来ない。 そこで海岸にある大岩の上に座し日頃信仰する身代の観世音を安置して、波風を静め渡海できるようにと 三日三晩にわたって一心に祈願した。 調度満願の暁に白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って海を渡るが良い」と云って消えた。 翌朝になり巌上から降りると近くの岩穴に三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっており 義経は無事に蝦夷が島へ渡ることが出来た。
次のような別の説もある。義経が蝦夷が島へ渡る際、それまで乗ってきた馬を船に乗せて連れて行くことが出来ないため 愛馬三頭を雨風を凌げる岩穴に繋いで行った。
もし義経北行伝説が真実とするならば、流石に仙人や空を駆ける龍馬が出て来るのはリアリティに欠けるので 後者の説が正しかったのではないかと思われる^^; 何れにしろこのとき岩穴に三頭の馬が繋がれたことから、三厩(三馬屋)の地名が生まれたとされている。
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| 厩石 | 三頭の馬を繋いだとされる厩石の岩穴 |
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| 龍馬山義経寺 義経を導いた観世音を祀っている | 甲岩(かぶといわ) 義経が大切にしていた兜をこの島の傍に沈めて 海神に捧げたとされる |
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| 鎧島 義経が島の神に鎧を捧げて風が吹かないように 祈願したとされる | 帯島 乗っていた龍馬の腹帯を締め直したとされる |
各地に残る義経ゆかりの伝承
・江刺郡田原村(現在の岩手県江刺市)に、義経一行が訪れ粟五升を求めて空腹を凌いだとされる家がある。 現在は弁慶屋敷と呼ばれている。 ・江刺市岩谷堂にあった岩谷戸多聞寺に義経一行が一泊したという寺伝がある。 ・江刺玉里の玉崎神社にて道中の安全を祈願するために、経文・太刀・槍を奉納したとされる。 ・岩手県気仙郡住田町世田米の判官山にて義経一行が野宿したとされる(判官とは源九郎判官義経のこと) ・赤羽峠の麓に「風呂」という姓の家がある。 峠越えをして来た義経一行がこの家で歓待を受けて長旅の埃を洗い流すことが出来たとされ、 それ以来この家を風呂と呼ぶようになったとされる。 ・上郷町板沢の駒形神社は赤羽の峠越えで力尽きた義経の愛馬「小黒号」の墓とされる。 ・遠野市綾織町には弁慶が持ち上げて重ねたとされる全長7mの巨岩「続石」がある。 持ち上げたときに付いた弁慶の足跡が残っている。 ・釜石市にある民家に義経一行が宿泊し、お礼に扇を置いていったとされる。 その後同家の子孫が中村判官堂という祠を建て義経を祀っている。 ・釜石市の法冠神社は義経一行が野宿した場所とされている。(この地域では判官を法冠と呼ぶ) ・大槌町の宮ノ口判官堂は義経一行が野宿した場所とされている。(後に里人が判官様を祀る祠を建てた) ・西布施の日尾に弁慶の手形が付いたとされる巨石がある。 ・鞍掛山は義経一行が雨に濡れた馬の鞍を木に掛けて干したことが由来とされる。 ・川井村箱石に義経を祭神として祀る判官神社がある。 ・長沢判官堂は宮古市長沢に義経が宿泊したことから、この地の人々が義経の武運長久を願って建てたとされる。 ・宮古市津軽石に判官館・判官神社・判官稲荷がある。 ・宮古市の黒森神社は義経が甲冑と陣太刀を納め、旅の安全を祈願したとされる(黒森は九郎森が転じたとされる) ・義経一行の追捕を命ぜられた畠山重忠が落ちゆく義経に同情し、わざと矢を外して義経を助けたと伝えられている。 そのとき松に当たった矢を神体として祠を建てたのが諏訪神社の始まりとされる。 ・八戸の伝統舞踊「えんぶり」は、七つ道具を背負った武蔵坊弁慶の姿を真似て踊ったのが起源とされている これだけ義経が北へ逃れたことを裏付ける伝承が残っているということは、 伝説の信憑性はかなり高いのではないかと思います。 私の判断ではこの伝説の信憑性は70%! ちと高すぎるか^^; ※参考資料:角川文庫「成吉思汗の秘密」、宮古地区広域商工観光振興協議会「義経北行伝説」