鳴海要吉については、その代表的な歌とともに竹浪直人氏により簡潔に分かりやすくまとめられた記事
がありますので以下にご紹介いたしましょう。
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【青森県近代文学の名品】Vol.38 鳴海要吉 歌軸「諦めの旅ではあつた」
「諦めの旅ではあつた/磯の先の/白い燈台に/日が映(さ)して居た」
これは京都の青山霞村(あおやまかそん)、金沢の西出朝風(にしでちょうふう)と並んで、口語歌運動
の先駆者の一人として知られる鳴海要吉(なるみようきち)(1883〜1959)現黒石市出身)の詠
歌であり、詩集『土にかへれ』の巻頭に見える一首である。当館では本人の揮毫(きごう)による歌軸一幅
を所蔵している。
黒石の商家に生まれた要吉は、俳句を嗜む父や敬虔(けいけん)なクリスチャンである兄の影響を受けて
育ち、少年期から「女学雑誌」や「文学界」などの文芸誌に親しんだ。島崎藤村の詩文に心酔し自らも詩
作に取り組み、1904年の夏には、大鰐尋常小学校の代用教員を務めて得た給金で処女詩集『乳涙集』
を出版。05年2月から4月にかけ「東奥日報」紙上で「吾が胸の底の茲(ここ)」と題し約50首の短歌を発
表。同年春、かねてから思いを寄せていた隣家の女性が婿を迎えることを知り、苦悩の末に上京。藤村の
紹介で半年ほど田山花袋の書生を務めるが、神経衰弱を患い帰郷。青森師範学校の講習生となり小学校教
員の資格を取得、07年春に下北郡佐井尋常高等小学校へ赴任した。10月に一時帰省し結婚、程なく妻を伴
って東通村田代(たしろ)尋常小学校に赴任、この田代の地において口語での歌作が実践に移された。2年
に及ぶ下北での教員生活の間、要吉は「東奥日報」に多くの作品を発表している。
09年春、北海道の増毛(ましけ)尋常高等小学校に赴任、翌10年には訓導兼校長として苫前(とままえ)第
四尋常小学校へ転任、いずれの地においても要吉はローマ字と国際語であるエスペラントの普及に努めた。
この行いが大逆事件の影響で社会主義に対する警戒を強めていた官憲から注視され、11年夏には家宅捜索
を受けた。そして同年12月、御真影奉戴(ほうたい)の儀式において不敬な挙措を見せたという嫌疑を掛け
られ、最終的に免職処分の憂き目を見る。一時、薬の行商で糊口をしのいだのち、13年冬に妻子をつれて
上京、翌14年7月から日本のローマ字社に勤務した。同年12月、それまでに詠んだ短歌や長詩を集成しロ
ーマ字書き詩集『TUTI NI KAERE』(日本のローマ字社)を刊行。その後,要吉はローマ字の普及活動に没
頭するが、再刊を願う人たちの後押しを受け25年に日本字版『土にかへれ』(恵風館)を刊行。翌26年か
ら41年まで口語歌誌「新緑」の主宰に心血を注ぎ、晩年は童話制作に勤(いそ)しんだ。
日本字版『土にかへれ』の巻末で要吉は、第一篇の歌は巻頭歌も含め「三十二歳東京巣鴨に於て」の作
と明かしている。「諦めの旅ではあつた」の一首は、下北半島・北海道での流浪の日々に思いを馳せて詠
まれた歌であると言えよう。今日、出生地から程近い黒石市御幸(みゆき)公園そして東通村の北端に位置
する尻屋崎(しりやざき)の両地に、この歌の碑が置かれている。
(記 竹浪直人)
(平成19年12月20日付・毎日新聞「今週のお宝」に掲載されたもの)
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なお、歌集「土にかへれ」の序文は島崎藤村によるものであり、その当時の要吉との関係を垣間見るこ
とができます。以下にその序文の全部を紹介しますのでご参考にどうぞ。
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序のことば 島崎藤村
『土にかへれ』とは、何を語ろうとする声であらう。この著者について私の知るところをすこしばかり
ここに書きつけて見る。
今から二十年ばかりも前に、私は北海道の方にある親戚を訪ねるために日露戦争当時の不安な空気の中
を遠く小諸から旅した事がある。その時、二人の未知の友が青森の宿の方で私を待ちうけてくれた。私が
初めて鳴海要吉君を知り、秋田徳三君を知ったのは、その時からであった。
あれは楽しい会合だった。あの港らしい空の見える青森の宿の二階で一緒に『ごめ』の鳴声を聞いた時
のことは、それからも長く忘れられずにある。当時の鳴海君も秋田君もまだ若いさかりの年頃であったし、
私とても七年の小諸の生活を辞してもう一度東京へとこゝろざす頃であった。
同じ東北の果を郷里とし同じ自然を母としながら、思ひ思ひの方角をさして別れゆく二人の兄弟のやう
に、それからの二君が執った道は随分相違したもののやうに見える。秋田君が一歩一歩自己の道を堅く踏
みしめて、次第に革命詩人の風格を具へて行ったことは人の知るごとくであって、今更私がここに言ふま
でもない。それに思ひ比べると、鳴海君の執った道はこの世に求めても充たされがたいやうな熱い寂しい
詩人の心をもって、あたかも長途の旅をつづくる飄泊者の姿のそれである。
風にさそはれ、雲にさそはれ、『飄泊の思ひ止まず』と書きのこした昔の人もないではない。鳴海君が
飄泊の思ひは、家をなきを家とし、旅を栖家とするところまで徹したものとも見えない。否、君は絶えず
家を求めつつある人である。私の知って居るかぎりでも、君の精神の長い流浪は二十年にも及んで居る。
しかし、誰がこの誠実な詩人を笑ふことが出来るだらう。私たちと同世代の人達の多くは、いづれも精
神の飄泊者ではないか。思想上の旅人ではないか。
私が、秋田君をここに引合に出したのは、単に往時の忘れがたい回想からばかりではない。いつまでも
あの青森の宿の二階に自分等三人を置いて考へたいばかりではない。あれほど気質を異にし傾向を異にす
る秋田君と鳴海君とではあるが、二君の間には何となく共通のものが見出せるやうに私には想はるるから
である。どう見ても二君は南国の詩人ではない。光の賛美者ではない。むしろ光を求めて休息することを
知らないやうな熱情の詩人である。二君の執って来た道こそ異れ、その出発にさかのぼって見るならば同
じやうな同じような激しい光の飢に萌えて萠して来て居るかと考へる。その点に於いて二君はあだかも兄
弟のやうな人達である。そして素朴なものの愛と、純情とに一致して居る。荒磯といふ感じと共に私達の
胸に浮かんで来るあの東北の果の方から、二君のやうな詩人の生まれて来て居るのに不思議はないかとも
思ふ。
私が仏蘭西の旅にある頃、巴里ポウル・ロワイアルの客舎の方で故国から到着した一巻の羅馬字詩集を
手にした。それが最初に出版された『土にかへれ』であった。見るもの聞くもの欧羅巴風の文字でないも
のはなく欧羅巴風の言葉でないものはないやうな旅窓にあって、私は旧知から贈られた詩集を羅馬字で読
み得るといふことに特別の親しみとなつかしみとを覚えた。『これが私たちの国の言葉だ、私達の国の詩
だ』といって同宿の仏蘭西人に示したことを覚えて居る。 鳴海君は熱心な羅馬字論者であったからこの
『土にかへれ』も先づ羅馬字で印刷されたものであったらう。私はまた遠い旅で読んだ『中央公論』の評
論の中に故中澤臨川君がこの『土にかへれ』を激賞したことを覚えて居る。
あれから最早十年あまりの月日が経つ。おそらくこの『土にかへれ』一巻は、著者に取って二つとない
青春の形見であらう。著者は以前の羅馬字でなしに、もっと広く読まれ易い形でこの詩集の出版を思ひ立
ったと聞く。又、この詩集の出版を機縁として、今一度文筆に親しまうとして居るやうにも聞く。思ふに
『土にかへれ』は長く読まれていい詩集である。極めて単純なやさしい言葉をもって、私達の奥に潜む精
神の光景を私的して見せた詩集である。永久に若い青春の書の一つである。
二十年の長い流浪を続けた詩人のたましひが行き付かうとするところは『土』であるだらうか。私はこ
の書の著者が飽くまでもその飄泊の精神に徹することを希望するものである。
大正十四年の夏、麻布飯倉にて
島崎藤村
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詩集「土にかへれ」より抜粋
第一篇 その一
あきらめの旅ではあった磯の端末(さき)の白い燈台に日が映(さ)していた
砂は焼け行手は人の影もなくせめてと慕ふ浜茄の花
煤ぶった座敷のなかに人たかり権現様を囃して居つた
旅の客何物思ひ『まかせい』と権現様が舞ふではないか
薄赤い憂ひを山の隅々にうたひともよす暁方の鳥
濱に出て小雨の中にひとり立ち太平洋をただ眺め入る
降り立てば牛の足跡あちこちに河骨の花が睡く咲いている
里の子が胡桃の皮の喇叭吹き牛と山から帰る日の暮
第一篇 その二
山のうねりが胸に残ってる汗拭いて炭焼小屋に水貰って飲む
磯の寺の圍爐裡の端(はた)に和尚から化ける狸の噺を聞いた
私はな正直者だ日陰よい切株よちと息ませてくれ
桃色の里の燈火(あかり)も世の中も一つ迷ひに暮れる擦草鞋
頑固(かたくな)な性根に生れ野路を来て雉子の尾の斑に涅槃をば見る
此の誇りながく続けい若者に乞われて宮の額の繪をかく
どの家も門に米研ぐ日暮頃村に入った頼りない身は
『エマルソン』を懐にして丘の家に蠶飼った人今どうしてる
世の中はそのままにあるそのままに牛の尻うち里の子がゆく
世の嗤笑(わらひ)迷もよそにどうかしてあなたの墓の傍に寝ませう
潜戸も暗く垣根も物悲し心のうちのあなたの家は
そと寄って垣根の傍に物思ひ暗がり路を草履とぼとぼ
第一篇 その三
磯がある松原がある寺があるああこの愁ひどうしていいか
半島は潮の音ばかりかぽつぽつの村みな此世のさびしさを語る
『知らないからこれで居られる知った日にやー』牛番の爺うまいことをいふ
年更けた處女(をとめ)の上に気がひかれ悩みがつづく林檎の樹の下
暗がりに家を逃げたら田の畔(くろ)に烏が四五羽見送って居た
牛番に水一杯も乞ひはすれ自分は彼に何等得させる
君見たまへ人迷ふ時吾知らず吾迷ふ時人は知らない
頑固のかたい胸にもそと摘んで抱けば愁増す浜茄の花
広原に一つ立つ宮縁に吾下駄を鳴らして此世を思ふ
何の力時も覚えぬ往時(そのかみ)の津浪のあとの樹が曝れて立つ
第一篇 その四
背戸の山は蕨も太く山鳩は『ててっ、ぽうぽうててっ、ぽうぽう』
命あって迷はぬものは何処にあるあれあの通り雲さへ迷ふ
どうしたって死なれやしないつひ其処に釈迦も気付いた耶蘇も気付いた
だれもみな神秘の丘は越えて来る我慢の外はただからっぽだ
塩茹での馬鈴薯(じゃがいも)の前に膝屈め少時(しばし)悟を盗む君は誰ぞ
何遍か此世を失くした人で無けや僕の言葉は解らんよ君
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再生版「土にかへれ」には反響のことばとして、田山花袋ほか複数人の批評文が掲載されております。
そのうち田山花袋の一文を以下にご紹介しておきましょう。
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「若い人たちに勧めたい」 田山花袋
鳴海君に取ってはこの世界は心の顫へる世界である。歌であらうが、詩であらうが自分の顫へて感じたも
のを文字にあらはさずにゐられないやうな心持ちの境遇に居る。従って鳴海君の感じたものは善かれ悪かれ、
自己の真に感じたものである。北海の林の中、太平洋に面した荒磯のほとり、そう言ふさびしいところで、
その自然の児がいかに顫へる心を抱いてゐたかということを考へると、私は何とも言はれないさびしさに打
たれる。鳴海君に持ってゐるものは煩悶とか苦痛とか言ったやうなものではないのである。さういふセンチ
メンタルなものではないのである。体と心とが一緒にさびしいと自然に向って顫へわなないてゐるのである。
さびしい然し燃え易い頭に映った自然のさびしさとわびしさがこの小さな冊子の中にあるのを私は見る。
私はこの小冊子を若い人たちに勧めたいと思ふ。
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