海を越えて


 老人は今、限りなく孤独だった。
 東京都新宿区───
 生まれて初めて訪れる地。
 山のように高い建物も、絶え間なく行き交う人々も、全てが珍しいものばかりである。
 こんな経験は今までもなかったし、これから先の残り少ない人生でもないであろう。
 しかし。
「……はぁ」
 ため息が出た。
 これで何度目か。


『龍々』


 そう書かれたメモに視線を落とす。
 ここまでは問題なく来ることができた。
 あとはこのメモに書かれた場所まで行けばいいだけなのだが、道がわからない。
「…………」
 迷子である。
 そもそも見栄を張ったのがいけなかった。
 送られて来た手紙には、往復の船券と老人が滅多に目にすることができない程の路銀が入っていた。
 物価が高いと聞く日本では普通の金額なのかもしれないが、老人にとっては見たこともない大金だった。
 このままどこか遠くへ行って人生をやり直す。
 そんな考えも浮かんだが、老人にはやり直す程の人生は残っていなかった。
 それに、お金はあの世へは持っては行けない。
 そう思い老人はこの地に訪れることに決めた。
 だがその際に、子供ではないのだから、と出迎えを断ってしまった。
「…………」
 後悔先に立たず。
 この歳になっても学ぶことは多い。
 学んだ結果が反映されてないだけかもしれないが。
「…………」
 今更悩んでも仕方がない。
 幸い、『新宿』という漢字を頼りに、駅まではちゃんと来れたのだ。
 探している店の名前も漢字である。
 看板を見れば問題なく見つけられるはずだ。
 老人は気を取り直して街を歩き出した……。















「待ちなさい」
 公園らしき場所を歩いていると背後から声をかけられた。
 振り返って見ると、そこには見知らぬ女が立っていた。
 長い黒髪の美人だ。
「あなた、ついてるわ」
「…………」 
 何を言ってるのか、わからない。
「ちょうど時間が空いてたところなの。特別にこの私があなたの似顔絵を描いてあげるわ」
「…………」 
 せめて漢字で言ってほしいものだ。
 老人はそう思った。
「さあ、そこにお座りなさい」
 女が公園の長椅子を指さす。
 座れ、と言っているらしい。
「私に似顔絵を描いて貰えるこの幸運に、古今東西の神々に感謝することね」
 女は何やら呪詛のような言葉を呟くと、長椅子の脇にあった噴水のふちに腰掛けて紙と筆を取り出した。
 どうやらこの女は絵描きらしい。
 約束の時間まではまだある。
 目的の場所はまだ見つかっていないが、一休みするのもいいかもしれない。
 老人はそう思い、女が指さした長椅子に腰掛けた。
「行くわよ」
「…………」 
 女の目が、きらりんと妖しく光った。







「……」
 女は静かに筆を置いた。絵が完成したらしい。
 絵を見ようと老人が立ち上がる。
 だが、女は出来上がった絵を自分の胸に押し当てるように隠すと、老人の動きをもう一方の手で制した。
「駄目よ」
「……?」
 まだ完成していなかったのだろうか。
「まだ死にたくはないでしょう?」
「…………」
 言ってる言葉はわからないが、非常に危険だということだけはわかった。
「今日のところはこれで許してあげるわ。慈悲深い私に感謝することね」
 女はそそくさと荷物を纏めると、一度も振り返ることなく足早に公園を後にした。
「…………」
 なんだったのだろうか?
 日本の風習は老人には理解しがたかったが、ここに立ちつくすわけにもいかない。
「……さて」
 老人は気を取り直して、再び街を歩き出した……。















「…………」 
 歩いた。
 歩きすぎたくらい老人は歩いた。
 しかし、まだ目的の場所は見つかっていない。
 既に若くはない体は限界だった。
「さあさあ、皆さん。足を止めて是非ごらんください。これを見逃すと後悔すること間違いなし!」
「……?」
 声がする方に目をやると、何やら人だかりができていた。
 何事かと思い、老人もその人だかりの中に入る。
「今日この場に集まった皆さんは実に幸運。実は、この私が手にしている靴はただの靴じゃない。履いているだけで拳法の基礎が身に付くという凄いシロモノなのですよ」
「信じらんねーよ」
 威勢のいい言葉に、それを笑う周囲の人々。
 どうやら物売りらしい。
「いやいや。それだけではなく、なんと! 足の裏のツボを刺激し、疲れた体もリフレッシュ! これを履くだけでまたたく間に元気に! 試しに、ほらそこのお嬢さん!」
「わっ、はい、わっ、わたしでありましょうか!?」
 物売りに指さされた少女が慌てたように驚く。
「うむ。事情は知らないが何やらお疲れのご様子。どうだね。試しにこの靴を履いてみては?」
「あー、えー……そういうことでしたら、少々失礼をいたしまして……」
 少女は自分が履いていた靴を脱ぐと、恐る恐る物売りが売っている靴に足を通した。
「どうだね?」
「うあー、これはすごいです! なんか体がポカポカして、今ならなんでもできそうです!」
 少女はその途端、元気そうにその場で飛び跳ねた。
「…………」
 すごい。
 あれは魔法の靴だ。
 どうやらあの靴には体力を回復する効果があるらしい。
 老人は先進国日本の技術に目を見張った。
「しかも、その靴がなんと今ならたったの二千円!!」
「な、なんと!? それはまことでありまするかっ!? 是非、わたくしめに売ってくださいませ!」
 少女が靴の代金を払うと、周りに集まった人々も争って物売りに殺到した。
「…………」
 人々が靴と交換に支払っている紙幣なら、幾ばくかの余裕がある。
 あの靴があれば、体力を回復させて、目的の場所を探すことができるだろう。
 気がつくと、老人は靴を手に人だかりから抜け出してた。
 そして。


 『アブクンフー』


 そう靴に書かれている文字を嬉しそうに見つめた。
 意味はわからないが。















「…………」
 老人は店の前に立っていた。
 扉に書かれている文字を見る。


『龍々』


 靴を履き替えて、体力を回復したのは正解だったようだ。
 ようやく目的の場所に辿り着いたのだ。
「…………」
 長かった。
 とても長い道のりだった。
 老人は大きく息を吸い込むと、力強くその扉を開けた。







 そこには。


 背が高くて、脚が長くて、黒髪で黒目で、料理がうまくて、Tシャツが似合って、ぶっきらぼうで、大人のようで子供っぽいところがあって、頼りないけど頼りがいがあって、普段は邪険だけどいざとなったら命がけで守ってくれて、優しいキスができて、頭なでるのがうまくて、世界で十番以内に入るくらい優しい若者が立っていた。

「遠いところ、よくきてくれました」

 その若者は下手な北京語で。
 Tシャツではなく、凛々しい花婿の衣装に身を包み。



 そして。



「熱烈歓迎♪」

 美しい花嫁衣装を纏った。
 懐かしい娘がその隣にいた。





 二人の周りには祝福の人々が。
 その中には、あの絵描きや物売り、そして物売りの客であった少女までもがいた。















 こうして、老人は。
 かけがえのない思い出とともに、再び海を越えて家路へと向かった。





 …………なお、帰りの際には、案内を素直に頼んだそうだ。







 おしまい








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