15歳より弓道を初めて23年…。まだまだいたらぬことばかり…。求道者として、指導者として思うところを書いてみました。間違いも多いのですが、許してください。叱咤激励を待っております。そろそろ大幅に更新しなくてはと思う毎日ですが、稽古指導にばかり時間をとられてます。
平成14年4月1日 孝徳
浦上 栄 先生目次
特集(別ページ)
日置流印西派史略 戦国時代の弓術(作成中)
礼
記 射 義 射は、進退周還必ず礼に中り、内志正しく、外体直くして、然る後に弓矢を持ること審固なり。弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中ると言うべし。これ以って徳行を観るべし。 射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ。 射
法 訓 射法は弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。心を総体の中央に置き、而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き、而して心を納む是れ和合なり。然る後胸の中筋に従い、宜しく左右に分かるる如くこれを離つべし。書に曰く鉄石相剋して火の出ずる事急なり。即ち金体白色、西半月の位なり。
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一、筈の位置、握りの位置、取り掛けの位置を確認。
一、上体から無駄な力を抜き、下半身を安定させる。
一、大三で押手の手の内をきめ、弓のひねりを弛めない。
一、大三から会・離れまで、両肩の線を維持する。
一、引き分けは、手先でなく肩・肘で、左右均等に丁寧に引き分ける。
一、的心への狙い(上下・左右)を確実につける。
一、押手と勝手の捻りを弛めず、会でも捻り続ける。
一、矢筋への伸びと縦の線の伸びを働き続ける。
一、押手親指付根を的の後下に突き刺すように働く。
一、雑念を捨て、一点に集中し、胸中筋を鋭く開く。
何百本、何千本引いても思うように射ることができず、師から厳しく言われ、嫌になったり悔し涙を人知れず流す...しかし、一度この難関を突破すると、見違えるように成長する。
日常の稽古の心得をここに示す。
一、素直であること
自分なりに考えはじめ、監督はこう言ったが自分はこう思うとか、これはおかしいと考えはじめたりし て、稽古に疑問を持ってはいけない。もちろん、研究心は大切である。
一、反復練習すること
頭で考えなくても身体が型どおりに正確に動作できること、これが無念無想である。
一、上達を急がないこと
あせりは禁物である。一歩一歩前進すれば、必ず目標に到達できる。
一、正法を心がけること
しっかり練習も積まずに次の課題を求めても無駄である。
一、師を信じること
師と、弟子との信頼感…・これが一番大切なことである。
※ 弓を引く際に右手につけて、親指、人差し指、中指を保護し、的中を向上させる道具である。
※ 材質は鹿の皮。鹿皮はやわらかく手になじみやすい。通気性に優れている。
※ 鹿皮の中でも、子鹿の皮が非常に柔らかく、高価である。
※ 帽子は和(やわらか)帽子と角入帽子があり、現在は角入帽子が主流である。
※ 歩射(近的前)は主に三つ掛、堂射(遠的前)は主に四つ掛の方法で用いる。
※ 三つ掛、四つ掛はそれぞれ力の使い方が違うので正しい力の使い方を覚える。
※ 帽子の部分は木をくり抜いた芯に鹿の皮を張り付けている。
※ 帽子が折れたり、控えが変形したりすると的中に重大な影響を与える。
※ 帽子の角度や形は、的中に重大な影響を及ぼす。
※ 大切に、正しく扱えば、一生使える道具である。
※ 稽古時は常に身につけているものであるので、自分の体の一部として扱う。
※ 弓具類の中では、最も大切にしなければならない道具である。
※ 手につけたまま屋外に出たり、砂や土をつけたり水をつけたりするのは厳禁である。
※ 立ってつけたり、はずしたりする行為は、礼に失する。
※ 必ず正座、跪座し、手指は会の状態を維持してつける。
※ 弓・矢等の準備ができてから最後につけ、後始末の時は最初にはずす。
※ 床等に直接置くことは、礼儀の面から、管理の面からも厳禁である。
※ つけたまま弓に弦を張ったり、はずしたり、矢を出したりするのは礼儀に反する。
※ 紐はしっかり、ほどけないように結ぶ。ピン止めは、ゆるむので使用しない。
※ 紐はきつく締めたり、ずらせたりしないよう、注意する。
※ 皮は、水分・塩分に弱いため、必ずかけ下を用いる。
※ かけ下は常に3〜4枚用意し、毎日取り替え、汗をかいたらすぐ取り替える。
※ 汚れたり濡れたかけ下は、必ず洗濯する。
※ 皮がくすねやぎり粉で汚れたら、消しゴムや細かい紙ヤスリで落とす。
※ 湿気を防ぐため、常に乾燥したきれいなタオルや手拭いで包む。
※ あまりにもひどく湿気っているときは乾燥剤を使用する。
※ 乾燥剤は直接触れないようにする。また、常時使用するのは皮が痛みやすい。
※ 「離れ」と「放つ」は全く違うものである。「離れ」は押手の角見によるものであり、
「放つ」は自らの力で右手を「放した」「外した」ことである。
この日本弓道史は、平成11年度青森県パワフルジュニア競技力向上対策事業(弓道)の講義資料として作成したものです。多数の文献を調べて編集し、私の私見も述べているため、文脈が定まらず非常にわかりにくい資料になったことをお詫びします。
1.弓の起源
何万年も昔、原始時代に、立木の弾力を利用して物を飛ばすことから「弓」は始まりました。人類史上初の機械式装置です。遺跡上で弓を確認できるのは、約10万年前の後期旧石器時代です。遺跡の出土品の中に、石の鏃(やじり)、石鏃(せきぞく)が発見されています。南ヨーロッパのアルタミラ洞窟の壁画には、弓を用いて狩猟している人の姿が描かれています。

日本では、長野県の八ヶ岳山麓尖石遺跡(縄文時代中期)から、黒曜石でできた精巧な石鏃が多数出土しました。黒曜石は、鏃(やじり)だけではなく、槍の先端や刃物等にも使われていました。日本国内の縄文時代中期の遺跡のほとんどから石鏃が発見されています。既にこの時代には、常時狩猟に弓矢を使用していたことがうかがえます。縄文時代の中期というのは今から3〜4千年前です。ここから、日本の弓が、世界に類を見ない独自の進化を遂げていくのです。

2.生活道具から戦闘道具へ
弥生時代初期の遺跡からは、石鏃だけでなく、骨の鏃である骨鏃が出土しています。また、遺跡場所によっては、弓と思われる木片が発見されています。そして、弥生時代の中期になると、金属を加工する技術が発達し、青銅製の鏃、鉄製の鏃を使用していたことが遺跡の発掘からわかっています。この頃には、鏃の長さが13〜14cmにも至る大石鏃を使用したり、4〜5cmの銅鏃を使用しており、弓矢が狩猟の道具だけに留まらず、兵器として変化してきたことを物語っています。武器としての弓矢の進歩は、格段に進み、弓矢の形としても、射法においても次第に統一されていったと思われます。
金属加工技術の進歩は、前述したとおり、石や骨の鏃→青銅→銅→鉄へ変化していきました。高温で溶け、高強度の鉄鏃が主流になっていきました。鉄鏃を使用した弓矢は、その殺傷能力から当時の兵器としては最上位の兵器となりました。弥生中期には、馬に乗って弓を引いていたこともわかっています。
国外から日本を記述した資料としては「魏志倭人伝」が有名ですが、中華思想にかたまった記述は正確さに欠け信用に値しません。しかし、この一文が興味を引きます。
『…木弓を使いて、その木弓は上を長く下を短く使用している。骨鏃や鉄鏃を竹矢に取り付けて使用している。…』
木弓は近代まで使用されており、現存している弓もあります。当時の日本では、竹や木を加工して弓をつくる技術はまだ確立していませんでした。ここで注意すべき事は、弓を持つ位置が既に「上を長く下を短く」握っていたという事であり、大陸から伝来したものではなく、日本独自の進化を遂げたことを物語っています。この弓の下を持つということが、いかに科学的で合理的であるかということは、『弓道科学論』で述べます。そして、「隋書倭国伝」では、『矢鏑(やかぶら)を使用している』と記述されています。矢鏑は、殺傷する矢ではなく、矢先に笛をつけたようなもので、飛ばすときに音がでます。現在では、神社で神事等で用いられています。この当時は、戦闘の開始を告げる鳴鏑(なりかぶら)として用いたのではないかと考えられています。
5世紀頃と思われる土保山古墳から、木弓が完全な形で出土しました。丸木弓で、両端が細くなっており、上七、下三の位置ににぎりが配置されていました。現在の日本弓のように2メートルもありませんでしたが、当時の世界文明のの弓としては、異常と思えるほど長く、これも日本の弓が独自の進化を遂げた証拠といえるでしょう。このように、文明発祥といわれる世界文明で発掘されてきた弓とは全く違った弓の形態が、紀元前には完成して、現在まで伝わってきていることに驚愕します。 日本の弓は他文明の模倣ではなく、私たちの祖先が、長い年月をかけて培ってきた文化なのです。弓の進化とともに、射術も飛躍的に進歩していきます。そして、長い年月を経て培われた日本人の心、精神をも取り込んで素晴らしい文化を形作っていったのです。
3.射術の進化(弦の引き方)
独自の進化を遂げた日本の弓は、射術の進化も必要としました。武器として、兵器として活躍するためには、いかに的中率がよくても通用しません。必要な力、それは貫徹力でした。狩猟でも戦闘でも、的中しただけでは意味がないのです。殺傷能力が発揮されなければなりません。現在でも、この貫徹力が日本の弓術(弓道)の真髄であるといえるでしょう。『日本書紀』には、弓の名手について随所に記述されています。一読を勧めます。
投石、投槍以上の威力がなければ、弓の利用効果はありません。それには、張力の強い弓を引く強大な腕力が必要になります。とすれば、誰にでもできることではありません。強弓を引けるものがそこの住人の尊敬を勝ち得たことでしょう。ではどのように引いていたのでしょうか。発掘された鏃や壁画だけでは、あまりにも資料が乏しく全てが仮定の話になってしまいます。しかし、鏃の精巧さを見たとき、加工技術を見たとき、当時の射術も相当に進んでいたと考えて間違いないでしょう。弓矢の改良進歩や射術進化の速度は、戦闘の数と比例し、加速度的に進んだことでしょう。現在の弓道愛好者が大きく考え違いをしていることは、射術にあります。現在私たちが稽古している射術とは全然違う方法なのです。弦を引く方法が現在のようになったのは、近代に入ってからです。私の言う近代とは、江戸時代あたりからのことです。弦を引く方法のうち、最も原始的な方法、全くの初心者に弓を渡し、引いてみるよう促したとき、必ずする方法、それは『つまみ型』です。『バーバリアン射法』ともいいます。親指と人差し指の間に弦と矢を挟み込み、そのまま弦を引く方法です。しかし、この方法では、強い弓を引くために腕力よりも強い握力が必要とされ、このままでは矢の貫徹力が落ちてしまいます。『つまみ型』は後に変形し、中指と小指も弦にかけて少しは楽に引けるように改良されました。全く別な方法、現在の洋弓の引き方である『地中海型』は、紀元前から地中海文化を持った民族が引いていた射法といわれています。人差し指、中指、薬指の3本指で引き、指の間に矢筈を挟み込みます。矢が安定し、強い弓も使用できるので、安定した射法といえます。これら3つの方法では、現在の日本の弓道のように、耳の後ろまで引くことが困難であり、せいぜい顔の付近までしか引けないのです。現在の私たちの引き方は、『蒙古型』『モンゴル型』といわれています。しかし、この方法が確立したのは前述のとおり江戸時代、徳川期に入ってからのことです。日本の弓術が戦闘の為のものではなく武士の心得となって、射術が百家争鳴の円熟期を迎えてからのことなのです。鎌倉時代に書かれた『北野天神縁起』では、菅原道真の「会」の状況を、正確に描いています。この絵の右手は『つまみ型の変形』です。そして、右手は右肩と首の中央くらいまで引き絞り、矢の高さは口というよりも顎(あご)の付近にあります。この引き方では、矢の狙いをつけることが可能で、実戦として有効な射法といえます。しかし、『蒙古型』が否定されたわけではありません。4〜5世紀の銅鐸に書かれた狩りの絵の残心の姿が、現在の射法の残心にとてもよく似ているのです。日本は古代から蒙古型の引き方であったと唱える研究者も多いのです。
4.射術の変化(弓腕と手の内)
弓腕(ゆみうで)つまり押手のことですが、やはり古代では現代射法とは大きく違います。鎌倉時代に書かれた『北野天神縁起』の肘の使い方を見ると、左肘はくぼむように腕を伸ばしています。そして、弓の握り方は完全な平押し(べた押し)であり、現在の手の内とは大きく違います。しかし、実用面から見れば安定した射法といえます。もちろん矢を放しても弓は返らず、すぐに次の矢をつがえることができ、やはり現代の射術とは違うといえるでしょう。「弓返り」は近代に入ってからであり実戦には向かない方法です。
5.神器・神事としての弓矢
日本の弓は、日本の精神・信仰と大きな関わりを持っています。現在でも弓道は神社の祓いの儀式(鳴弦)に用いられたり、奉納には欠かせないものとなっています。神武天皇が弓を持っているお姿が有名ですが、「魔を祓う」道具として重宝されてきました。
現在でも、初詣には「破魔矢」がありますから、手にした人もいるでしょう。
日本神話にはたくさんの弓矢の話があります。前述した『日本書紀』や『古事記』にも、神の系図とともに弓矢の起源や話が多く載っています。時間を作って読んでみてください。奈良・平安の時代には、弓を用いた神事が儀式に発展しました。公家や貴族らが弓を好んで引いていたようです。
6.流派の出現(歩射と騎射)
弓具の変化とともに、射法も変化してきたことは前述のとおりですが、当時の戦闘での最上兵器である弓矢をいかに有効に、効率よくその能力を発揮させることができるか、古代の人々は相当苦心したことでしょう。私達も、当たりが出るようになるまで人に聞いたり、教本を読んだり、自分でいろいろ工夫して努力しています。当時、射術の達人は英雄になるのです。競って上達を目指したのでしょう。当然、名人・達人のまわりに人が集まり、弟子となり、指導を求め、同様の射術を持った集団が生まれました。そしてその教えの中に、秘術がつくられ伝えられていったのでしょう。もちろん、弓術だけでなく、剣術や槍術の方法も発達しました。弓術や剣術等に優れた集団を得た城主や武将が、戦に勝ち、勢力を拡大していったのです。
弓を持つ集団はこのあたりから2つの系統に分かれていきます。歩兵が茂みの中に隠れ、近距離の武将を狙う射術を極めていく歩射系統と、馬に乗って敵の近くまで急速に近づき、馬上から敵を狙う騎射系統の、射術の2極化です。自分が止まって狙う射法と、激しく動く馬上で狙う射法では射法の構造が大きく違います。奈良時代には、歩射は神事の儀式としても発達し、騎射は娯楽としても発達しました。また、公家の弓と武家の弓との2極化も進みました。三十三間堂の通し矢(堂前)は、江戸時代になってから流行しますが、既に平安の末期には始まっていたという記録があります。当時は、歩射も騎射も優れていなければ弓の名手ではありませんでした。
戦のための弓術が、競技のための弓術に変化してきたことも流派の出現に大きな影響を与えました。
7.主な流派の起こり
鎌倉時代になると、宗から禅の思想が伝えられ、日本人の心に取り込まれ、日本独特の思想へ変化し、これが武士の間に広まりました。武士の心得である剣術・弓術と結びつき、武士の魂・精神すなわち武士道となりました。弓術は武士の中で精神的価値の高いものとなり、求道としての弓道へ変化していきます。
弓術の上に流派の名前を唱えたものは数多くありましたが、支流が多く、その本筋がわからなくなってしまった流派も多くあります。大流の主なものを挙げてみます。
尊 流 神道流 日本流 鹿島流 太子流 伴 流 紀 流
秀郷流 逸見流 武田流 日置流 大和流 小笠原流
日置流と小笠原流は、有名ですので聞いたことがあると思います。この2つを次の項目で説明します。これ以外の流派については、後世ににおいて呼称をつけたものも多く、既になくなったものも多くあります。この大流に諸派がいろいろあります。これらの流派は、平安・鎌倉時代に起こり、各派に分岐しながら発達しました。
8.日置流
日置流は室町・安土桃山時代に起こりました。始祖は日置弾正正次という名の人です。小笠原流の始まりとほぼ同じ時期です。日置弾正についての諸説は多く、神格化されて八幡大菩薩の化身ともいわれています。諸派諸家に伝わる弓書でも異説が多く、本当に実在したか疑問を唱える研究者もいます。
『弓道大系図』では、「弾正正次は伊賀国(三重県)の日置村の生まれで、当時の天皇に仕えたが、病気のため辞任し、大和国香久山の辺に隠退し、室に閉じこもって心気をこらし、弓を悟り、射の真理を正し、飛・貫・中の奥義を極めた。」とあります。若い頃に古流の逸見流を学び、隠退後に苦心の末、新興の日置流の祖となったという説が日置流派において支持されているようです。日置流は、その系譜からいくつかの諸派に分岐しました。
出雲派 雪荷派 道雪派 寿徳派 左近右衛門派 大心派 山科派
大蔵派 印西派 竹林派
日置一門の射手は多くの名人を輩出し、天下に名をとどろかす者も多かったといいます。後に「射の日置」と呼ばれました。佐々木左京太夫という射手は、弓術天下無双(弓術においては並ぶ者がいない)と呼ばれたそうです。
9.小笠原流
後醍醐天皇に仕えていた小笠原貞宗は、後に足利尊氏に招かれて庇護され、小笠原流は名を挙げました。小笠原流派弓馬の正統として、また武礼を司る儀式の方法として盛んになりました。弓術・礼法としては高い地位が確立され、のちに「礼の小笠原」と呼ばれるました。
10.江戸時代の弓術
戦国時代が終わり、徳川家康が江戸幕府を起こし、大きな戦乱のない、泰平の世が続きました。鉄砲は、既に戦国時代には伝来していました。織田信長が戦法として鉄砲を使用し、鉄砲による戦が主流となるにつれて、弓矢や騎馬戦を主体とした戦法は姿を消していきました。世界の流れを見ても、鉄砲や大砲の普及に伴って弓矢は姿を消しました。しかし日本の弓術は、廃れるどころか、ここからいよいよ円熟期に入るのです。
戦国時代に、城主が招いた弓術の達人達は、その庇護を受けながら射術を完成させていったことは前述したとおりです。武士の間では、弓術・剣術・柔術等の武術は武士の必須科目であり、役人登用の際に弓術を極めていることが登用条件でした。また、武士の中には、弓術をもって世襲の家禄を伝えている武士も多かったのです。
弓矢は当たることが絶対条件ですから、今のように、弱い弓や、軽い矢、弦音の響きなどはまったくなかったといっていいでしょう。強い弓、太い弦、太い矢、重い鏃で当たり前だったのです。会で働きを長く続けることも、この時代には考えられません。江戸から明治に生きた三輪猪之助典義という人は、
「一日百射位では、上手くもならず、下手にもならぬ。うまくなりたければ、一日三百射以上、月に一度は千射をしなさい。」と弟子に言ったそうです。
江戸の末期でこのような水準ですから、一日数十射の私達の稽古は、稽古とはいえません。準備体操の域でしょうか。射術としては、現在に通じるものが多い江戸時代の射ですが、やはり、現代の弓とは別物と考えていいでしょう。
さて射法は流派とともに、「何を狙うか」ということで変わってきます。戦場でも、「狙うもの、そしてその狙うものまでの距離」によって射術は違います。江戸時代になり武士の必須科目となり、武徳を身につける弓術は、同時に競技性を強めていきました。
『下野喜連川の殿様の話。弓術を究め、弓は一寸(約3cm)の新木の弓を用いて、30間(約55m)離れた鉄の甲(かぶと)を射抜いた。75間(137m)離れた1尺(約30cm)の的に百射皆中した。矢は全て安土にもぐってしまったので矢取りのときは、家臣が鍬で掘り出した。』
『高瀬金弥は深川の三十三間堂で半堂(約60m)を射たが、総矢数1万3千本のうち、1万1千6百本を射通した。その功績が称えられ、紀州へ2百石で迎えられた。これは10歳のときの話である。』
既に泰平の世であった江戸時代の話なので、殺伐とした話ではありませんが、想像を絶する弓の世界であったといえます。
形の上からも、現在私達が「大離れ」と呼ぶのは大の字のように両拳を真一文字に開くことをいいますが、江戸時代では、離れにおいて右拳が2〜3寸(6〜7cm)動く程度が普通で、5寸動けばもう「大離れ」と呼んでいました。「8寸の離れ」はないことだといわれていたそうです。
弓や矢、ゆがけもそれぞれの専門家が研究を重ね、技術革新をしていきました。
また、ここで断っておきますが、この時代は脇打起し(斜面打起し)であり、正面の打起しではありません。現在脇打起しは日置流や他の流派が守っています。なぜ現在の射法がほとんど正面打起しになったのかということについては、後述します。ともかく、何百年の日本弓術の歴史において、江戸時代まで伝わっていた射術は、明治時代になって、大きく変わってしまうのです。
11.「五射六科」
1780年頃に発行された「射学要録」で、射術は「五射六科」の項目に整理されました。射術は、以下の五科です。
巻藁(まきわら)前…巻藁にて射術の基礎を学ぶ
的(まと) 前…近距離での射術
遠矢(とおや) 前…遠距離での射術
差矢(さしや) 前…戦場で1分間に10本以上引く速射の術
要(よう) 前…戦場での引き方、動き方
そして六科は、以下の五科に射術を加えて六科となります。
射儀…弓を用いた礼法
弓法…弓具の取り扱い方
弓器…射具の品々の知識
弓工…弓矢の製作方法の知識
弓道…弓術の深理を究める
12.射術の目的別発展
江戸時代に、発展していった射術を目的別に分類すると、以下のようになります。
戦場特に近距離で最大の効果を発揮する射術。流派や教傳が多くあり、現在の近的競技はこれに近い。どの流派も、目的とすることは一つで、近距離において、的中を確実とし、更に最大の貫徹力を生む射法・射術の完成である。貫徹力を生む技術として、角見が生み出された。
鉄砲の伝来とともに急速に衰退していったと歴史の教科書では教えているが、当時の鉄砲は不具合が多く、命中率も低かった。暴発して死亡したという記録も多く残されている。織田信長が三段編成で鉄砲部隊を配備して、やっと連続して打つことができたという代物である。その時代の弓術の名手は5〜6秒で2本の矢を射ることができた。しかも15間先の兜を貫く的中率である。鉄砲の伝来とともに鉄砲に変わられた感のある弓術だが、まだまだ必要性が高かったのである。
馬上での射法。鎌倉時代の絵には、騎乗し走っている状態で戦をしている絵が数多く残っている。
流鏑馬。決められた距離で動かない的を射るための射法が定められた。小笠原家が幕府の庇護を受け、発展させてきた。現在は神社の奉納や郷土芸能として保存されている。
脇打起しでは馬に弓が触れてしまうため、前方(正面)に打起して引分ける射法に変化した。これが後の「正面打起し」となる由縁である。
三十三間堂に代表される通し矢。約120mの距離の堂内で、一昼夜(約24時間)の間に何本射通すことができるかを競う。120m飛ばすのではなく、高さの制限5mを越えることなく射通すのである。一回の通し矢には千両以上の金額がかかったといわれ、藩の名誉と己の名声を賭けて、命がけで挑むものであった。中途で挫折した射手は恥じて切腹した。歩射とは目的が違うため、その射法はまるで違う。一回500本を打ち終わると矢取りをする。その間に弓師・矢師が手入れをし、按摩師が射手の体をほぐし、師範が射手に指導を行う。
貞亨三年(1686年)、紀州の武士、和佐大八郎(18歳)が13053本を引き、8133本通した。これが最高記録である。食事や休憩の時間などを除いて計算すると、5〜6秒に1本の速さで発射したことになる。想像を絶する世界である。体力・筋力を温存するため、いろいろな工夫がなされた。従来の三つガケでは手首に負担がかかり長時間の行射が難しいため、四つガケを開発し、親指(帽子)を硬くして、あまり力を入れなくても強い弓が引けるように改良した。押手には押手ガケをつけ滑り止め(松ヤニ等)を塗り、弓返りしないようにした。押手の肘を曲げながら引き分け、右肩につけた肩当てに右手がつくと同時に押手を伸ばし、60間(120m)先まで低い放物線で射抜くのである。つまり四つガケは近距離の物に的中させることを目的としていない。低い矢道でいかに遠くに飛ばすかという目的で開発された道具である。私個人の考えとして、現在近的において四つガケを用いている射手は、なにか勘違いしているのではないかと思う。当てることを目的としないゆがけを用いて的に当て、それでご満悦なのだろうか。
この通し矢は、金銭的疲弊・肉体的酷使があまりにもひどくなったため、後に禁止された。しかし、藩の名誉をかけたこの通し矢によって、弓具や技術が進化し、発達していった。
13.明治時代〜現在の弓術
大政奉還によって江戸時代が終わり、明治時代になりました。士農工商の身分制度がなくなり、だれでも弓が引ける状況になったことは、弓術の普及という面ではよかったかもしれませんが、遊戯化して規律を守らずに賭博の対象としたり、射法も関係なく中ればよいという風潮が生まれて精神的にも堕落していきました。弓道場はいかがわしい戯れの場所になったとも聞きます。このような時勢を憂いて、先人達が何百年もかけて築き上げてきた技術や精神を守ろうと武道家たちが集まりました。明治政府の援助を受けて、柔術・剣術・弓術等の武道の振興を目的とした大日本武徳会が明治28年に設立されました。武道家表彰例を制定し範士、教士、錬士の称号や段位などを設けました。堕落した精神や的中主義を排除するために、精神第一主義・射形第一主義をとりました。今度は中らなくても射形がよければよいという風潮になり、伝統的な弓術への影響が甚大でした。いろいろな流派を無理に統一しようという動きまであり、日置流を含む数多くの流派の射法である脇打起しと、小笠原流に代表される正面打起しの統一を図ろうとしました。各流派代表数十名、武徳会役員数名が集まり、2日間にわたり議論百出、喧々囂々の討議を繰り返したといいます。、どちらも譲るはずはなく、妥協案として正面に構えてから直接大三へ持っていく中間形式の鵺式打起しまで登場し、散々な状況となりました。結局この議論は、統一されることなく併記するという形で収まりました。正面打起しであっても脇打起し(斜面)であっても、長い歴史と伝統に裏付けされた射法であって統一するべきではないという結論に至りました。一方、古来より伝わる各流派の保存及び発展も行われました。
武徳会は、昭和17年に政府の外郭団体として新たに改組されました。これにより、武道は更に活動が盛んになりました。弓道も積極的に活動をし、各種の施策を講じました。しかし、第二次大戦(大東亜戦争)後、米国の占領下におかれた日本は、GHQ命令によって武道の活動が制限され、更に武徳会は国家組織と密接な関係があるとされ、解散させられました。この混乱の状態がしばらく続きましたが、憂慮した武道家らが献身的な努力を続けてそれぞれ種別別に全国的な組織をつくりました。そして昭和22年に全日本弓道連盟(初代会長宇野要三郎)が結成されましたが翌年解散、昭和24年に日本弓道連盟が結成されました。この組織が現在の全日本弓道連盟になったのです。
現在の「弓道教本」は、昭和28年に「第一巻」が発刊されました。弓道の第一人者達が集まって、「戦後の精神的虚脱とこれに伴う射形、射法の乱れを慨歎し、弓道の大綱を作るとともに、規範となって、宝典ともなりうる性質のものを作ること」を念願して制作されました。射法については、射法八節を詳細に解明し、「打越し」については、統一をやめて、二つの方法を認めるという形になりました。しかし、諸動作つまり「体配」に関しては、礼法を主体として発展してきた「小笠原流」の作法や動作を取り入れました。しかし、各流派の独自性が消され、個人的解釈に委ねられている解釈の違いが混乱も引き起こしています。
この日本弓道科学論は、平成11年度青森県パワフルジュニア競技力向上対策事業(弓道)の講義資料として作成したものです。浦上栄先生の著書から得たことに加えて私の私見も述べているため、文脈が定まらず非常にわかりにくい資料になったことをお詫びします。
『射道の本意は、胆を練り、自己を正しくして筋骨を堅め、法に従って的に中てるにある。故に弓を射ようと思う者は、まず志を正しくして気を調え、足踏・胴造・取懸・手の内・弓構・打起し・引分三分の二・詰合・伸合・やごろ・離れ・残心に至るまで、規矩に従って射形を正しくを要する。射形を正しくして後、骨節は相適し、筋力は交和し、矢束は身に応じて収まり、心定まって雑念が動かず、生気肢体に満ちて、弓我は全く一体となり、心身は審固となって弓は動かず、全矢は強みを生じて活々としてくる。かくて、諸点一致して自ら発するのを待つべきである。このようにして発すれば、慮して中たらないことはない。これは全く妄射偶中ではなく、法射必中である。それ故、いやしくも発して中らなければ、自分の射形が規矩にかなっているかどうか、また自分の心気が統一しているかどうかをよく考えて、それを自身に求めなければならない。中るのも中らないのも皆自身に在るものであるから、中ったといって慢ずるに足らず、中たらなかったといって怨むべきでもない。要はただ、迷心我意を去って天然の自性を悟り、思慮分別にわたらず、有念有想の境界を離れ、明鏡に物が映るが如く、また水上に月が浮かぶが如く、無念無想の境界に心眼を鎮めて、法に従って発するように努めなければならない(法射必中)。これは妄射者流の射法と違い、古来射道の本意として伝えているところである。』
上記の文は、武士が弓矢や剣を表道具とした時代の教訓であり、今日の趣味と健康を目的とした弓道に照らせば、理解しがたい部分もあります。しかし「射法を正しく行うことに努めれば、必ず中る(法射必中)」という射法の大切さを説いています。
1.日本の弓は、なぜ長いのか。なぜ握りの部分は下方3分の1のところにあるのか。
仮定@
竹合成弓が完成したのは近代で、日本の弓道史のほとんどは丸木弓であった。木は上の幹が細く張力が弱い。下は太く強い。バランスをとるために下を持った。
仮定A
下を持つことによって、引張力が大きくなる。遠くまで飛ばせる。また、上が長いことで弓にかかる負担が減少する。
仮定B
骨格上握りやすい。手の内がつくりやすい。
仮定C
振動の節である。日本弓は、振動のほとんどない点が2箇所ある。洋弓は一番振動する点を握っているため、吸収装置を取り付けている。
仮定D
馬に乗って引く場合、下が長いと邪魔である。同様に、芝生の中に跪いて射るのに下が短いと邪魔にならない。しかし、これでは上が長い理由を説明できない。
仮定E
黄金分割による美的バランス。黄金分割は、1:1.618である。
仮定F
竹や木等の材料の関係上、しなりを必要とするため長くなった。
2.手の内の働きとその影響
@弦道(弦が外を廻ること)
弓は相当右にしぼられているので、弦が右手から放れると外に廻って矢を押すことになる。弦が外を廻る程度は、角見の強弱、遅速、良否によって変化する。
A弓返り
弓が返る人は上手に見えるが、手の内のひねる働きが十分に効いて更に角見の働きが加わることによって貫通力が強くなり、弓返りがおきる。弓返りの多くは手の内の弛みや手首の返りによってであり、真の弓返りではない。
B命中の多少
角見の働きが十分でない場合、矢は弓の側木の籐に摺れてしまい狙っているところよりも前に飛ぶ。角見が十分に効いた場合、弦は筈を矢の方向(弓の右側)に向かって働くので、その方向さえ間違わなければ、矢の方向が変化せず、命中率は極めて高くなる。全国的に有名なある高校では、手の内を固定し、的の後ろを狙って、前に矢を飛ばして的中させていた。果たしてこれが本当の弓道の姿であろうか。
C矢と弦の分離
角見の働きが強いと、弦は矢を先々まで押し送る。その結果、貫通力が大きくなり矢の速度も増す。角見の働きが弱いと、弦は最後まで押し送ることなく途中で分離してしまい、矢が落ちる。また空弦となって弦も切れやすい。
D矢の上下
角見(親指の付根)は、中段をを押しつつ離れにいたって瞬間的に上押しにするのが最上とされている。
E矢の前後
手の内の働きにより弓を絞らなければ、矢は右方向(前)に飛ぶ。矢がまっすぐ、狙いに向かって飛ぶのは、すべて角見の働きにかかっている。相当強く角見を働かせると、矢は左方向(後)に鋭く飛んでいく。
F弦切れ
弦と筈が途中で分離し、弦が最後まで矢を押せない状態で弦が戻ることを空筈という。空筈が多いと弦は痛み、すぐに切れてしまう。弓の最大張力を瞬間的に受けてしまうからである。これは、勝手離れの人(特に初心者)に多く見られ、角見の働きが弱い射手は、当然勝手離れ(勝手切り)になる。
G弦音の善悪
離れによって、弦が上関板を打った音を弦音と呼んでいる。けっして弦自体がだす音ではない。弦子(つるね)・弦音(つるおと)・弦拍子(つるびょうし)と昔から呼んでいる。弦子は弦が最後まで矢を押せない状態で弦が戻る時に出る音で、最も下手な音(長く響いて叩くような音…バ!ギャギャ〜という感じであろうか?)とされている。最も上手な音は4寸の別れで生じた音(キャッ!という感じか?)であり、弦拍子と昔から呼んでいる。その音は冴えた響きのある弦の音となる。
H矢通間(やづま)
矢通間は矢の飛ぶ状態をいう。押手・勝手ともによく、角見が十分に働いた場合の矢飛びは上下左右にぶれることなく、的を貫く。矢が上下に振れる場合は、勝手に原因があり、左右に矢が触れる場合は押手に原因がある。矢の尻尾が回転して飛んでいくような時はどちらも悪い状態である。
I弓を落とす
離れた瞬間に、弓が暴れて手の内が弓を支えられなくなり、弓を落とすこと射手がいる。これは大きな失(失敗)であり、この原因は特に小指の締めが甘いことが原因である。手の内における角見の働きは、中指・薬指・小指の3本が、弓を締める力を有効に生み出して、弓を落とすことはない。
J矢の羽を摺る
角見が弱いと矢が矢摺籐に擦れて前方向に飛ぶことは前述したが、その際、弓摺羽がいつも摺れていくため、矢の3枚の羽のうち、1枚だけ減ってしまう。これにより、矢のバランスがくずれ、「中らない矢」になってしまう。角見の効いている射手は弦が弓の外を廻るため、羽が摺れない。
K離れと放つ
「離れ」は、角見の働きによって自然に離れたことをいう。会での延合・詰合の働きが高まり、平素の厳しい修練によって身についた反射が角見の働きとなって勝手に反映し、離れが生じる。これが理想の離れである。「放つ」は、自分の意志によって勝手で放した結果である。これを私達は「勝手離れ」・「勝手切り」と呼んでいる。
L上手と下手
中・貫・久の3要素が具備された射手を上手という。中・貫・久の3要素が不十分な射手を下手という。中は中り、貫は貫通力、久は中と貫を長く続ける永続性をいう。同じ弓矢を用いても、鉄板を貫く射手もいれば跳ね返される射手もいる。この違いが貫徹力である。的中率がよいだけでは本当の上手な射手とはいえない。
M遠的と近的での角見の働き
歩射は近い敵に対して、貫徹力(殺傷能力)のある矢を射ることが目的である。これに対して堂射は矢のり(弾道)の高さを低くして矢を遠くに飛ばすことを目的としている。従って射法や弓具は性格を異にする。角見の働きに関していえば、歩射は中押しで働き、離れの瞬間に上押しを懸け弓を伏せる力を加える。堂射は離れの際に下押しを効かせた状態で弓は照るように離れることとしている。ゆがけも、歩射は三つガケ、堂射は四つガケが正式である。1本指が多いということだけではなく、構造において大きな違いがあり、会における働きも異なる。
N弓具と角見の働き
自分の筋力体力に合わない強い弓を使用すると、勝手離れとなり角見が効かず、矢は前に飛ぶ。逆に弱い弓を使うと離れが出ずに振込みが生じて矢は後ろに飛ぶ。矢が弓の強さに釣り合わず軽い場合は矢は的の上に行く。重い場合は下に行く。弦が太い場合は矢と弦の分離が遅くなり、矢は後下に飛ぶ。細い弦は前上に飛ぶ。自分の筋力体力、技術力に見合った道具、そしてその道具と道具の相性をみて選ばなくてはならない。そのためにも稽古量を増やし、いろいろ研究して、求めていかなければならない。
O病癖
角見の働きも知らず知らず癖がつき、中りが落ちるようになる。一番よいのはコーチ・顧問の指導を受けることである。
矢所が上下前後に一定しない。的のまわりを囲む…角見の働きが弱い。
矢所が上に外れる。…離れの瞬間に下押に変化した。
矢所がほとんど前下に外れる…勝手で放すと前下に飛ぶ。離れの瞬間に上押が強すぎるのも原因の一つ。
矢所が前に外れる…角見が全体的に弱い。
3.右手のひねりの効果
右肘から右手首までを一体と考え、親指の内側で弦を押すような気持ちで下膊(かはく)部全体を内側にひねる。これは矢が弓から離れることを防ぎ、右肘が締まり弛みを押さえる。更に張力が大きくなり、矢飛びが鋭くなる。そして何よりも角見の働きを助け、矢を的方向へ飛ばす働きを生む。注意しなければならないのは、手首だけでひねってはならないことで、かえって矢こぼれするようになる。親指は絶対に曲げずに、そらして的方向へ向けなければならない。曲げる癖がつくと、離れの時に勝手を開くようになってしまい、的中率が落ちる。
弓道教本を基本にしながらも、自分の解釈で書いています。この図解に基づいて稽古され、大会で当たらず、審査などで落ちても責任は持てません。
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足踏み(あしぶみ) 武射系統(二足)と礼射系統(一足)の二通りある。 武射系統…的を見ながら左足を的に向かって半歩踏み開き、次に目をしたに移して(この時、顔が下を向かないように注意する)右足をこれと反対に半歩踏み開く。 矢束(やづか)…足踏みの幅。自分の矢尺の長さを標準として両足の角度が約60度になるよう踏み開く。幅が狭いと縦線が弱くなり、広すぎると前後に対して弱くなる。 両足の先端(爪先)を結んだ線は的の中心。 |
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胴造り 胸から力を抜き、丹田に集中させる。 大地に根を張るように下半身を安定させる。重心は両爪先と両踵の対角線の接点。 足踏みのまま直立し、上半身を楽にして、背筋を伸ばし、胴造りを完成させる。あごを軽く引き、顔は正面から見て弓と弦の中に入る。 目は鼻頭を通して筈を見る。両肩を無理なく自然に下げる。両肘を張り中胴を維持する。呼吸を整え、しずかに複式呼吸をする。 「三重十文字」肩・腰・足の線を平行に重ね、縦線と垂直にする。 ひかがみ(ひざの裏)を伸ばす。尻をしめる。 |
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弓構え(ゆがまえ) 正面にて取懸ける。 左右の肘(ひじ)を軽く張り、的を抱えたような気持ちで構える。 手の内を整える。目づかいに注意する(筈・矢先・的) 吸う息で物見を定める。目は鼻頭(びとう)を通して的の中心 (的心)を狙う。 正しい手の内は高的中・貫徹力を得る! --------------------------------------- |
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打起し 弓構えの位置から、吸う息とともに静かに両拳を(右が主導)打起す。 湯気が上がるようにすくい上げる気持ちで軽く上げること。 高さは(角度)45度を標準とする。体型により個人差がある(監督・コーチから聞く)が、額の線よりやや上のあたりである。 静かに息を吐き、肩や胸から力を抜く。 気合いを足・腰・丹田におき、胸や肩には力を入れぬこと。上体に力が入ると、胸を割った離れができない。 |
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大三(三分の一) 大三の角度は45度。右手は額から拳一つ分程度離れた位置。 両肩を確実に入れること。大三にて手の内を定める。 ねらいの線に左肘が入る。右手先で引くのではなく、右肘にて引く気持ちで引分ける(手首の力を抜く) 手の内がゆるまないようにし、しっかりと絞り込みながら左右均等に引分ける。 両肘の張りを忘れない。 矢は「水流れ」を維持する。 (筈から矢先に水が流れるように、わずかに弓手が低くなる) |
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会(伸合・詰合・やごろ) @矢束を引き納めA狙いが的に付きB胸弦が付きC頬着け を同時に行い、会に至る 心身を集中して発射の時を熟せしむ。 胸は息を詰めることなく、吐く息のみで気を充実させるが、気が乱れぬ程度に静かに吸ってもよい。ただし、矢筋に伸びる働きが止まらないように注意する。(ゆるまないように働き続ける) 会は最低5〜6秒は働き続けること。 「早気」は自分の意志で会を維持できなくなる。当然、的中も落ち、弓そのものに対する意欲を失わせる「魔境」「病癖」であるので、日頃の研鑽が必要である。 五部の詰…左右の肩・左手右手・胸を張り詰める 上下左右の力の釣合を維持する。(無限に働く) 詰合い … 縦横十文字の堅持 伸び合い… 気力の充実 五重十文字 弓と矢・弓と手の内・右手親指と弦 背骨と肩線・首筋と矢 |
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離れ さらに「狙い」「頬着け」を変えぬまま、弓を捻りながら左右に伸び続ける。上下へ伸びる働きは、左右の伸びを助ける 気合いの充実とともに、気合いの発動・角見の働きで離れる。 体を割り込み胸郭(きょうかく)を開く。 角見が働き、角見で弓の右内角を押し開く。 左手の角見は強く鋭く働く! 妻手のひじを捻ったまま後下に働く! 両肩を左右に広げ、胸郭を開く! -------------------------------- 押手は弓を伏せるように働く。 押手親指は的芯へ伸び、押手小指は自分に引きつける。(弓の上部の働きを助ける) 手の内をゆるめると角見が消滅する。押手首が曲がると的中率は低くなる。(角見の働く方向が変化する) 角見の働きが弱ければ、矢は前に飛ぶ。小細工(ゆるみ等)をして後ろに的中させても、真の中(あたり)ではない。 |
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残心・残身 矢を発し姿勢を変えず、矢所を注視する。 離れても気合いを抜かずに充分伸び合い、吸う息で弓倒しをする。 残心は、離れの働きを忠実に再現している 妻手の手の甲は上を向くように。(捻ったまま離れた結果) 両拳の高さは延長線上よりもやや下である。(拳一つくらい) 射の総決算である。縦横十文字が堅持されること。 弓倒しが終了するまで顔向けはもどさないこと。 弓倒しは両肘を残しながら大きくゆっくりと行うこと。 |
事の敗るるは、多く得意の時に因す
自信過剰は禁物!得意満面の時ほど失敗する。
事の成るは、常に窮苦の日に在り
成功は、いつも自分に厳しく、つらい稽古を続けてこそ!
大 象 不 遊 兎 径
(大象は兎径と遊ばず)
大きな志を持っている者は、目標を持たない小物と交わらない。遊びで弓道をしている者、真剣に稽古しない者と交わったり遊んだりしては、大きな志(目標)を達成できない。自分にとって、チームにとっての目標は何なのか、普段から自問自答していれば、ふざけた稽古をしたり不真面目な者とつきあうことはない。
とりあえずここまで…。またエネルギー充填して執筆の予定です。
今後も期待していただけるのでしたらメールをください。
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