ブラジル苦闘記

現勤務所 上北教育事務所
派 遣 先 ブラジル サンパウロ日本人学校
派遣年度 昭和53年度
氏  名 三浦 啓司

はじめに

 わたしたち一家のブラジル生活は,はじめのうちこそ戸惑いもあったが,2年目からは言葉にも不自由を感じることなく,ブラジルの生活スタイルにも慣れ,実に楽しく有意義な毎日であった。3年目にはブラジルの生活が天国に感じられ,家族の誰もが日本への帰国を嫌がり,在伯の延長ができないものかと悩んだほどである。
 わずか3年間ではあるが,ブラジルへ足を降ろした日から,異文化とのギャップの中でもがきなから,日本では一生涯かかっても得られない経験をし,実に多くのものを学ぶことかできた。その中から,特に苦労したいくつかを紹外しようと思う。


アパート探し

 わたしたちは,4月9日(日)にサンパウロに着き翌10日から学校が始まったのであるが,それから約1か月間アパート探しに明け暮れたのである。ホテルから学校へ出勤,勤務が終わり夕方ホテルへ帰るとすぐ街へ飛び出し,真夜中までアパート探しをする。だから,夜食はいつも12時過ぎであった。
 こんなことを書くと「住むところを確保してくれていないのか」と不思議に思われるかもしれないが,家主が借りたい人についていろいろ調ペ,身元の確かな人に貸すのがあちら式なのである。従って,代わりに誰かが前もって借りておくことなどできないわけである。さらに困ることは,ブラジルに不動産を持っている方を保証人にしないと貸してくれないのだから,わたしのようなどこの馬の骨ともしれない者がアパートを借りるのは至難のことなのである。わたしも日本の外務省発行の身分証明書を持ってはいるが,そんなものは彼らにとってみればただの紙屑にすぎないのである。
 10数回ことわられた後,銀行へお観いし,口座を開くことを条件に家賃保証をしてもらい,さらに家を傷つけたり火災を起こしたりした時のための保証金を積んでようやく住む場所を確保できたのである。このとき印鑑の国とサインの国の違いをいやというほどわからせられたのである。保証の書類は,わたしを保証してくれる銀行の理事か確かにその資格がある方かを証明する書類なども添付しなければならず,またどの書類も保証人の奥さんのサインも必要なのである。印鑑と違い本人にサインしていただかなければならず,わたしを保証してくれる方の奥さんがヨーロッパへ旅行中であったため,帰国するまでどうにもならず,毎夜訪問し4日日にようやくサインをいただけたのである。この他にも身分証明書,給与証明書,さらに結婚証明書まで求められるのである。また,家主がわたしを調査する費用は借り主のわたしが一切支払うのである。
 仲間の中には中学生を連れて行った方もおり,この家捜し期間中にノイローゼ気味になったり,金も心身も疲れきってしまう家族がでるのもやむを得ない状況だった。

写真
ようやく確保した我が家での
「カフェ・ダ・マニヤン」(朝食)

 こうした苦労を重ねた末,一緒に渡伯した仲間8家族か自分の住居を定めたのは5月の中旬であった。さらにベッドが入り,カーテンがつき,テーブルやソファ,ガス電球などがそろい,家らしくなったのはさらに1か月ほど経てからであった。借りたてのアパートはトイレの蓋もカーテンのレールも何もないただのコンクリートの箱である。買物も勤務終了後に中古の店を買い歩くのであるが,通訳を頼む訳にもいかず身振り手振りを交えて交渉する。ブラジル語は必要に迫られて使わなければならず,話せない等とは言っておれないのである。
 何を注文しても南米ののどかさで,「アテアマニヤン(明日に)」とばかりで直ぐには届かないのである。
 外から中が丸見えのアパートで,毛布にくるまって床に寝ている一家4人の姿を想像していただけるだろうか。


仲間の中途帰国

 こうしたアパート探しの苦労は我々で最後にしようと,その後仲間8人で時々集まり研究を始めることにした。問題の第一は保証人であり,第二は家具の確保である。
 保証人の件については,信用のあるブラジル銀行との話し合いやブラジル在住の資産家探しをすること,アパートや家具の件は帰国者からの譲り受け等を進めることを柱に行動を開始し,どうにか準備ができたが,我々だけでは心もとないので有力なコンサルタントを味方にお願いしたのであるが,これが災いをもたらしたのである。
 3月10日の卒業式が済むと3年を経過した方々が次々と帰国した。わたしたちは彼らの家具を買い取り,それぞれのアパートヘ運んだ。帰国者5人に対して新年度の派達者は11人であるから,もちろん不十分ではあるが年度末休み返上で頑張り,候補のアパートも30ほど用意し最善を尽くした積もりであった。だか結果は無残であった。
 4月10日新しい赴任者が来伯したが,用意したアパートや家具は気にいってもらえぬばかりか,彼等はわたしたちの知らない間にコンサルタントの口車に乗せられて便宜を図ってもらい,挙げ句の果てに法外なコンサルタント料を請求されたのである。彼等は日本的に考えサービスだと思っていたと言うし,コンサルタントはあくまでもビジネスだと主張し,裁判にかけても経費を要求するということであった。金額はあまりにも多額で我々世話役にも新任者にも負担できるような額ではなかった。ついには領事館にも聞こえるところとなり,相手が訴えようとしているわたしたちのリーダーが姿を隠すとということで対処せよと命じられ,泣く泣く日本への中途帰国となったのである。リーダーや彼の奥さんの無念そうな顔は今も焼き付いて離れない。異国間のものの考え方,価値観のずれから生じた事件であったといえるように思う。
 我々の1年間の努力は無に帰したのだが,アパートの保証についてば12ヘクタールの広さを持つ学校の敷地の所有者である理事者にお願いすることでどうにか解決をみた。新任者のホテル住まいも1週間たらずであったが,この1件がその後の人間関係にも悪影響を及ぽしたのは事実である。
 この学校理事者を保証人にする方法が定着し,これ以後アパート探しのゴタゴタはなくなったようである。わたしたちの努力も認められていいようにも思う。


子どもの事故

 わたしたち一家のブラジル生活5週間後,つまりホテルからアパートに移ってすぐのこと,一難去ってまた一難,次の試練がわが家を待ち受けていたのである。
 5月16日の午後4時頃,下校パスから降りた小学3年の二男が,パスの陰から追い越してきた17歳の女の子の運転する車にはねとばされたのである。ランドセルがクッションになり,頸を強打しなかったのが救いであったが,脚の骨が折れ足首がめちゃくちゃにつぶれている息子を見たときには,命を救ってくれた神に感謝すると同時にこんないじわるをする神をうらんだものである。
 事故のとき偶然に通りかかったパトカーの通報から救急車で州立病院に運ばれたのであるが,わたしが病院へ到着した午後10時にもまだ何も処置されずに廊下に転がされていた。当病院は貧しくて治療費を払えない浮浪者のみが収容されていると聞き,個人病院を探して直ぐ転院させたが,ここでもまた,国情の違いを知らされると共に海外へ家族を連れて気軽に出たことの怖さを知らされ,つくづく後悔したものである。
 息子の事故は,事故後すぐに学校へ知らされたそうであるが,わたしが知らせを受けたのは,運営委員会終了後の午後9時過ぎであった。教頭の言は「あなたは,それなりの覚悟で日本を出発したはずである。何事があっても職務は全うしていただく」であった。腹も立ったが自分の甘さも知らされた思いであった。
 息子は母の顔を見るまでの数時間,誰一人として知る人もいず言葉も全く通じない病院で涙ひとつ見せずに痛みや寂しさをこらえていたそうである。妻も不安な顔も愚痴もこぽさず,海外であることの壁を越えて懸命に子どもの回復に身を尽くしてくれた。弱いと思っていた家族の者たちの素晴らしさを再発見した事故でもあった。
 息子はブラジル人の医師に「ユーはサムライの子だ」と言わせたほど我慢強く,学校へ行けないことについても泣き言ひとつ言わなかった。8月の最初の旅行にも足をひきづり,歯をくいしばりながらついてきた。わたしは,心の強い子や妻を持ったことにどんなに感謝したかしれない。
 この事故はブラジルを知る機会をたくさんつくってくれた。警察,裁判所,保険会社,弁護士ほか普通では得られない方々と会うこともできた。社会制度や価値観の違いにも度々ぶつかった。ブラジル社会の裏の裏の醜い一面も覗くことかできた。わたし自身もこの事故を通じて他人に騙されたりもした。恩人でもあるブラジル国の名誉の為に詳細は述べないが,貴重な体験をさせていただいたことでは感謝もしている。
 息子が身を犠牲にしてわたしにしっかりしろと警告してくれたのだとも思う。


国境騒動

 日本では「外国」と「海外」とは同義語だといっていい。しかし,多くの外国では「外国」は「海外」ではない。広々とした原野や道の途中からよその国であることも珍しくない。国境にまたがって家が立っていることさえある。
 わたしたち一家がブラジル,アルゼンチン,バラグァイの国境にある世界一の大滝「フォース・ド・イグァス」を見に出かけたときのことである。日本からの新婚旅行のカップルの通訳を兼ねてサンパウロを出発したのだが,着陸予定のブラジル側の飛行場の具合が悪かったのかアルゼンチン側の空港に着陸したのである。そして,観光ビザの新婚者はブラジル側へ渡れるが,わたしたち公用ピザの所持者時外国へいったん出たことでどんなに頼んでも,どんな手段を試みても渡してもらえないのである。予約してあるホテルも川のすぐ向こうに見えていてもどうにもならないのである。「ブラジルに再入国するためにはアルゼンチンの首都プェノス・アイレスにあるブラジル大使館からピザをもらわなければならない」というのである。滝の周りに住んでいる人たちや観光客は,パスでも歩いてでも出入りが自由なのだが我が一家だけは頑として聞かないのである。写真を取ろうとすると国境を警備する兵隊がすぐとんできて大きな声で「スパイ行為だ」と言って銃をつきつけるのである。半日位ねばったが結局諦め,新婚さんには気の毒だったが,これもいい経験と涙を飲んで別れることにしたのである。いつもは公用旅券の効用をよろこんでいたが,この時ほど緑色パスポートを恨めしく思ったことはなかった。わたしたちは,その夜は旅行代理店の負担で超豪華な国際ホテルへ泊まり,その後アルゼンチン国内を旅行し,再入国ピザを取得して無事帰伯したが,国境にポツンと取り残された不安さは筆舌につくせないほどであった。

写真
3国国境にまたがるイグアスの滝
 この事件は,わたしたちが日常あまり考えることのない国や国境とは何なのか,さらに国家,国旗,人種,民族などについて改めて考えてみるきっかけとなった。
 本県でもこの頃,国際理解教育の推進や国際交流が話題になりはじめている。国旗や国歌もとりざたされている。こうしたことも日本の論理からではなく相手側をよく理解することを根底にしたいものである。
 世界中の国がみな仲間になり,国境が取り除かれ,自由に行き来できるようになる日は果たして来るのであろうか。


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