安藤氏 資料

[保暦間記]
  奥州に安藤五郎三郎、同又太郎と云者あり。彼等が先祖安藤五郎と云者、東夷の堅め   に義時が代官として津軽に置たりけるが末なり。この両人相論する事あり。高資(長   崎入道覺眞子)数々賄賂を両方より取りて、両方へ下知をなす。彼等が方人の夷等  合戦をす。これに依って関東より打手を度々下す。多くの軍勢亡ひけれども、年を重  て事行ぬ。

「鎌倉年代記 」

1325年 (正中二年)
6月6日
  蝦夷蜂起の事に依って、安藤又太郎を改めらる。五郎三郎を以て代官職に補しをはんぬ。

1326年 (正中三年))
3月29日
  工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。

7月26日
  祐貞季長を虜え帰参す。

安藤宗季譲状 正中二年九月 (1325年) (新渡戸文書)

ゆつりわたすつかるはなハのこほりけんかしまし
りひきのかうかたのへんのかうならひにゑその
さたぬかのふうそりのかうなかはまのミまき
みなといけのちとう御たいくわんしきの事
みきのところハ宗季せんれいにまかせてさたを
いたすへきよし御くたしふミを給ハるものなり
しかるをしそくいぬほうし一したるによて御く
たしふミをあいそゑてゑいたいこれをゆつりあた
うるところなり宗季いかなる事もあらんときハ
このゆつりしやうにまかせてちきやうすへきなり
たたしうそりのかうのうちたやたなふあんと
のうらをハによしとらこせんいちこゆつりしやう
をあたうるところなりよてゆつりしやうくたんの
ことし
   正中二年九月十一日    宗季(花押)

安藤宗季譲状 元徳二年六月 (1330年) (新渡戸文書)

ゆつりわたす五郎太郎たかすゑニみちのくにつかる
にしのはま せきあつまゑをのそく事
右くたんのところハむねすゑはいりやうのあい
たかの御くたしふミをあいそへてしそくたかす
ゑニゆつりあたふるところ也たのさまたけなくち
きやうすへし又いぬ二郎丸か事ふちをくわへて
いとをしくあたるへしゆめゆめこのしやうをそむ
く事あるへからすよてゆつりしやうくたんのこと

   元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)

安藤高季に所領安堵状 建武二年十月廿九日(1335年)

      花押(北畠顕家)

陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部
郡宇曾利郷、中浜御牧、湊以下、同西浜 除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村
地頭代職事  
右、安藤五郎太郎高季、守先例可令領掌之状、所仰如件

  建武二年閏十月廿九日

北畠顕家国宣    建武元年三月十二日(1334年)

   下 津軽平賀郡
 可令早安藤五郎高季領知 当郡上柏木郷事
右為勲功賞所被宛行也 任先例 可致其沙汰状 所仰如件
  建武元年三月十二日   
(新渡戸文書))

種御振舞御書
略、
武家は其事知ずして調伏も行ざればかちぬ。今又かくの如なるべし。ゑぞは死生不知の
もの、安藤五郎は因果の道理を弁て堂塔多く造りし善人也。いかにとして頚をばゑぞに
とられぬるぞ。是をもて思に、此御房たちだに御祈あらば入道殿事にあひ給ぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。あいはざりけるとおほせ候なと、したたかに申付候ぬ。

『日蓮聖人遺文』 建治元年 (1275年)

6月
  宇都宮の五郎高貞、小田尾張権の守高知、蝦夷の追討使として下向す。
[鎌倉大日記]
  奥津軽の住人安藤秀長郎従季兼逆心、小田尾張の守大将として合戦す。安藤誅さる。

1327年(嘉暦2年 丁卯)

<諏訪大明神絵詞>

元亨・正中のころより嘉暦年中に至るまで、東夷蜂起して奥州騒乱
することありき。蝦夷が千島と云へるは、我が国の東北に当て大海
の中央にあり、日の本、唐子、渡党、この三類各三百三十三島に
群居せり。今一党は渡党に混ず。その内に宇曽利鶴子別と萬堂宇
満伊犬などと云う小島どもあり。この種類は多く、奥州津軽外が浜
に往来交易す。夷一把と云うは、六千人なり。相集まるときは、百
千把に及べり日の本、唐子の二類は、その他外国に連なりて、形
相夜叉のごとく、変化無窮なり。人倫、禽獣魚肉などを食して、五
穀の農耕を知らず、九訳を重ぬとも語話通じがたし。渡党は和国
の人に相類せり。但し髭しゅ(”しゅ”は髭偏に須の字)多くして、遍
身に毛を生ぜり。その語、人里(”人里”は人遍に里の字)野なりと
云えども大半は相通ず。この中に公超霧をなす術を伝へ、公遠隠
形の道を得たる類もあり。戦場にのぞむ時は、丈夫は甲冑・弓矢
を帯して前陣に進み、婦人は後陣に随ひて、木を削りて幣帛の如
くにして、天に向かひて誦呪の体あり。男女共に山 を経過すと云
へども、乗馬を用いず、その身の軽きこと、飛鳥・走獣に同じ。彼
等が用ゆる所の箭は漁骨を鏃として、毒薬を塗り、わずかに皮膚
に触るれば、その人へい(”へい”は幣の巾を死の替えた字)れず
と云ふことなし。根本は酋長も無かりしを、武家その濫吹を鎮護
せんために安藤太と云ふものを蝦夷管領とす。これは上古に安倍
氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。その子孫に五郎三郎季久
・又太郎季長と云ふは、従父兄弟也。嫡庶相論の事ありて合戦数
年に及ぶ間、両人を関東に召して理非を裁決之処、彼等が留守の
士卒数千の夷賊を催し集て、外が浜末部、西の浜折曽関等に城
郭を構て相争ふ。両城険岨によりて洪河を隔て、雌雄さらに決し難
し。因茲武将大軍を遣て征伐すと云へども、凶徒彌盛にして、討手
宇津宮が家人紀清両党の輩多以命を堕。漸深雪の比に及ぬ。貞
任追討の昔のごとく、年序をや累ねんと衆人怖畏をいたす所に、
或夜深更に当社宝殿の上より、明神大竜の形を現て、黒雲に駕し
て辰巳の方をさして向給ける。諏訪郡の内、山河大地草木湖水、
皆光明に映徹せり。同夜同時に奥州に現じ給けるとぞ後日には注
進せし。ここ に季長が従人、忽に城郭を破却して、甲をぬぎ、弓
の弦をはづして官軍の陣に降す。三軍万才を称して則関東に帰り
ける。凡神の奇特、三韓征討以来、延暦桓武の御宇には、将軍と
身を現して官兵の戦功を扶助、文永・弘安の皇朝には、大竜と身
を現して蒙古の強暴を対治す。嘉暦近年又以かくのごとし。本朝
擁護の神徳、異賊降伏の霊威影響の冥応、古今日なる者也。

熊野那智山願書之事
右意趣者 奥州下國弓矢仁達
本意如津軽外濱宇楚里鶴子
遍地悉安堵仕候者重而寄進可申
處実也怨敵退散武運長久
息災延命子孫繁盛殿中安穏
心中所願皆令奉祈申所之願書
之状如件
  應仁弐年つちのへ祢二月廿八日安東下野守師季(花押)  
(1468年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

下國伊駒安陪姓之家譜  (湊文書)

氏神    山王大明神

家之紋檜扇鷹羽

幕紋之時者、両緒下提又衣装并器物紋者狛刎総書也、羽重様

左上可書也、如合衣装之襟書也、此扇者非常扇尺扇而綴板

十二枚曰檜扇也、公家衆或長人者不可着、総若年人者長組

結彩緒着総可持之、扇内可書種雲象山水之画幕紋并蒔画等

者黒扇白羽可書十二枚也、安日長髓 第六天魔之内邇二男 大日本

                                下國伊駒安藤太醜蛮

国地神五代 顱鷽 草葺不合尊之御宇欲界第六天主化自在天天

王 今按変化下界天衆他而愛

  用之故、号化自在天云々 、欲使内臣天魔之次男安日長髓変化領

自礙島降住于豊蘆原中津国、故長髄号下国称第六天魔王孫、

曰大日本国者欲界下為我領地、与神武天皇 顱鷽 草葺不合尊之

第四皇子、号神日本磐余彦尊、互争国、神武天皇者是天神七

代地神五代之正統、而的伝相続之御領地也、然長髄振猛威欲

令押領之間、神武天皇隠玉礼於日向国宮崎登櫛振峯、而仰せ天

祈誓時、従蒼天霊劍振降即取之、一劍者神武天皇帯之、二劍

者鹿島香取両神帯之、安日長髓籠大和国伊駒崇既為日本之大

魔王也、神武天皇御宇三十三年辛酉年御即位以後也、名蘆原国

号秋津島、五十九年已末、天皇従日向州吾田邑東征、都大和

号畝傍山住橿原宮、時登兵自攻伊駒崇一戦功成遂虜安日、改

其名於醜蛮宥死罪被遠流東南都遐流卒都破魔今書津

                                        軽外浜 貶謫蟄居

之地者安東浦、自此長髓号安東太、其孫代々相続為通称、

人王十六代応神天皇御宇謂安日号日下也、

安国安東太、 

人王六十代醍醐天皇御宇、延喜十九年春、安日安国参内之

時、置檜扇板上於鷹羽依帰為家紋、此時参詣山王大明神奉崇

為氏神、故祈願所号山王坊吽寺也

人王六十六代一条天皇御宇、長保元年巳亥三月上己日、参内

之時任安大納言号東海日下将軍、自称云是定、

長国安東太、

人王四十八代称徳天皇之臣安陪仲丸者、元来大和国安陪文殊

堂前之商子也、依為才人被免殿上賜安陪姓而後任右大臣、四

十九代光仁天皇御宇宝亀十年仲丸唐為舶論於明州津被討而

死、息男安陪広庭、為報父之仇、欲撃唐船人之旨、雖令奏、

無勅許故、奉恨天子、馳下奥州称下國、与于同姓一族等、楯守

出羽国仙北金洗沢之舘、其末孫安陪頼時彊為朝敵振猛成於奥

羽両州而不随勅命、時安日長国同心而推上京都、欲奉傾朝家

之由聞于華駱、於是将軍伊予守源頼義朝臣、蒙勅宣進発奥

州、七十代後冷泉院之御宇、康平五年秋、追討安陪頼時之子

厨川二郎貞任・鳥海三郎宗任、是広庭之末孫也、

貞季安藤太、

人王八十二代後鳥羽院之御宇、建久三壬子年、改安日姓為安

倍、依号下国安東太郎安倍貞季日下将軍外浜殿也、

盛季  安藤太津軽十三安大納言、

長髄百代之後胤也、為婿南部大膳大夫源義政処来十三湊対面

盛季帰、而後義政廻謀略攻破十三湊乗取津軽、故嘉吉三年十

二月十日盛季逃渡狄之島松前也、

廉季 二男西関安東次郎

引率侍二百余騎秋田守護湯河湊、湊尭季者廉季之之嫡孫也

長録三年、其尭季上洛、奏謁「義教二男中奥武将十九」代将

軍源義政公、于時任左衛門督、後剃髪号銕船庵洪郭太虚禅

門、故称湊庵主也、

豊国 三男横木安東三郎 、

任下野守号奥法寺殿、

道貞 四男潮潟安東四 郎、

重季 潮潟安東四郎 、

康季 十三湊盛季子下国安東太 、

後花園院

文安二年徒狄之島渡入津軽処引根城而病死、時南部之代官富

士山城守葬礼之号高山夷公大禅定門令建立般若寺之、

義季安東太

後花園院

享徳二年楯籠津軽鼻和郡大浦郷狼倉舘之処被攻南部之軍勢六

千余騎而生害畢、本所侍生残衆退散築深浦之舘籠焉、

政季 潮潟重季之嫡男 安東太

十三湊破滅節弱冠而被生虜、於糠部八戸改名安藤太知行田名

部、其後下国義季生害惣領家断絶、蛎崎武田若狭守信広新羅

姓相原周防守政胤河野加賀右衛門尉政通越智姓「(人王百三

代甲戌一国徳政後花園院二十六代丙子)」等相議承徳三年八

月廿八日従大畑出船押渡狄之島而住焉、奥秋田城介湊安倍尭

季康正二年呼越下国政季於小鹿島廻謀略攻出葛西出羽守取河

北郡知行焉、

御土御門院 庚寅

文明二年正月二十九日政季津軽攻藤崎之舘引退、而後長木

大和守起謀反、長戌申亨二年三月十日河北糠野城而政季生

害、森山飛騨守奉討御頸也、号奉巌宗公大禅定門、

政季徒狄蛭之島越秋田小鹿島、下之国領于舎弟茂別下国八郎式

部大輔家政副置河野加賀右衛門殿政道、松前領于下国山城守

定季副置相原防守政胤、上之国領于蛎崎武田若狭守信広副置

蛎崎修理大夫季繁令守護当国也、抑蛎崎武田若狭守信広者若

州之屋形武田大膳大夫国信朝臣之猶子也、稟性大力強盛為勇

気麁豪故、養父国信為家為老之数輩依哀惜遁其難、弱冠之比

宝徳三年辛巳末春竊出若州往野州足利ノ荘時住焉、享徳元年春

来奥之東隅田名部令知行、於是称号蛎崎也、河野加賀守越智

政通其先祖者唐土越国王流浪、人王十三代成務天皇御于三十

年始来住于和朝、爾時天皇憐愍預賜伊予国、故号住所云う越智

郡是越国之人也、即為家之姓也、其後六十一世孫浪人而来田

名部住、又河野家五十七代七郎通広之男出家而上天台山学

門、後参詣熊野山令通夜清浄殿之暁蒙以下六十万人決定往生之

札可諸国遊行之示現、為一遍上人其法孫相続務日本国中遊行

事也、

家政  安藤八郎

   潮潟重孝二男 

茂別下国式部大輔号享徳寺殿、

忠孝  安藤太政季之息男

檜山之屋形

後土御門院

明応四年本所葛西出羽守秀清没落以後知行河北千町也、後柏

原院永正八年七月廿六日逝去、号日照山国照寺殿天讃祐公大

禅定門、

尋季  安藤太

後奈良院

天文十五年従檜山陳立深浦森山、此時三月十五日蛎崎若狭守

季広持弓為名誉、同十六年二月八日尋季逝去、知恩院殿、

舜季  安藤 太

天文十八年当屋形之二男千松丸殿為湊也、後号東九郎左衛門

督安陪茂季為季広之婿、同十九年六月廿三日屋形渡海松前、

此謂東公之島渡、

愛季  安藤太

織田右大臣平信長公在江州安土時被申通使者、愛季之郎従真南

部宮内小輔季賢也、依為熊野山参詣下向之幸使、従信長公之

御内書云、

雖未申通候以事之次令啓候、仍為応所望鷹師両人差下候、往

還諸役所路次番并餌之事無異議被仰付候者歓悦候、珍鷹同易

物出来候者御馳走所仰候、上口相応之儀承候者珍重候、南部

宮内少輔可申候、恐々謹言

  二月九日  信長朱印

 謹上下国殿

 

正親町院

天正十一年三月被生害浅利左衛尉義政時慶広朝臣討留義正

也、依之比内郡過半愛季之手裏、同十五年三月日逝去、

実季  安藤太郎

天正十六年実季与湊東九郎高季諍領地秋田而合戦、実季依利

運悉領秋田郡、同十八年冬初上洛謁豊臣太閤秀吉公、其後奉

事家康公秀忠、

後陽成院

慶長六年所替移住関東宍戸、同九年夏住秋田城介、寛永十年

蟄居勢州朝熊、

師季  安藤八郎家政之嫡孫

茂別下国式部大輔孫、六月髪云清勤、永禄五年六月廿三日被

攻落茂別之舘於夷狄而退任松前、老後与嫡子式部大義絶被追

出松前流浪行勢田内遂没于彼所、

直孝  次男源十郎加兵衛尉

由孝  嫡男久三郎主典助早世、

母季広朝臣女 、

慶季  久二郎宮内少輔

下国之惣領重季無男子故為婿継家、

広季  三男内記承同前

継直孝之家、

安季   源十郎母津軽喜庭伊勢守之孫

季春  源十郎母松前伊予女、

季嘉  大助母蛎崎主殿女後号彦左衛門、貞亨、乙卯十月八日於武州江戸病死

季  宮千代母蛎崎十郎右衛門女、 

 

宮千代祖父没後茂別地而蟄居焉、是時阿吽寺住僧字者慧海編諱

智潤、俗姓者父方悪源太義平之孫、母方三浦大助孫、生国武

州江戸、有縁而元禄辛秋渡于松前教訟国守矩広公依之、

元禄六年癸酉之冬給十一月六日帰于松前、維持宮千代七歳也、

 

譲り渡す 津軽鼻和の郷 絹家島 尻引きの郷 片野辺の郷
並びに蝦夷の沙汰 糠部宇曽利の郷 中浜の御牧 湊 以下の地頭
御代官職の事 右の所は宗季先例に任せて沙汰を致すべき由
御下し文を給わるもの也 然るを子息犬法師一子たるによって
御下し文相添えて永代此を譲り与うる所也 宗季いかなる事も
あらん時はこの譲り状に任せて知行すべき也 但し宇曽利の郷
のうち 田屋 田名部 安渡浦 をば女子虎御前一期譲り状を
与うる所也 依って譲り状件の如し  
正中二年九月十一日    宗季(花押)

譲り渡す 五郎太郎高季に陸奥国津軽西の浜
(関 阿曽米を除く事)右件のところは宗季拝領の間
御下し文を相添えて子息高季に譲り与うる所也 他の
妨げなく知行すべし 又犬二郎丸がこと扶持を加えて
いとをしく当たるべし 夢々此の状を叛くことあるべからず
依って譲り状件の如し
元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)

*関=折曽関 深浦町関 *阿曽米=小泊巷あたり

早く 安藤五郎高季に領知せらるべし 当郡上柏木郷事
右は勲功の賞のため宛行われる也 先例に任せ其の沙汰致すべくの状
仰せの所件の如し
建武元年三月十二日

陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷
糠部郡宇曾利郷 中浜御牧、湊郷以下、同西浜
( 除く安藤次郎太郎後家賢戒知行分 関 阿曾米等村 )
地頭代職の事
右、安藤五郎太郎高季 先例を守り領掌せらるべく
の状仰せの所件の如し
建武二年閏十月廿九日