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環状土壙群・列石の方位と配置の規則性について

          

 はじめに

 縄文時代の遺構配置になんらかの規則性・法則性が認められることは周知の通りである。しかし、それがどのような原理原則に基づいているのかについてはいまひとつ明らかにし難いものがあった。

 この方法論について、筆者は面白いアイディアを得た。それは、スケールと方位を揃え、色を塗り分けて重ねてみると言う極めて単純なことにすぎない。しかしその結果、一般に環状の配置の認められている配石遺構や土壙群が、メッシュの上にひとつの規格をもって整然と配置されることがわかってきたのである。   以下、筆者がこれらの遺跡群を重ねてみるに至った過程について説明し、筆者なりの解釈を示してみたい。

1.縄文尺

 今回提示した図はすべて1:420で統一し、4.2m四方となる方眼を重ねたものである。これは三内丸山遺跡における掘立柱建物跡の柱と柱の間隔から提唱された縄文尺による。メートル法以前、多くの社会は30cm前後を単位とする身体尺を持っていた。縄文時代にも身体尺が生きていて不思議ではない。とはいえ、筆者もまさかこれほどまでに同様の規格を持つものとは思わなかった。図に見るように一般に環状の配置の認められている配石遺構や土壙群が、メッシュの上にひとつの規格をもって整然と配置されるのである。自分なりにかなり豊かな縄文観を持っているつもりではあったが、正直なところここまでとは思い至らなかった。

 筆者が多少なりとも関わった環状配置の遺跡としては、青森県六ヶ所村の大石平遺跡、上尾駮(2)遺跡、北海道戸井町の浜町A遺跡などがある。筆者は、これらの事例について真円を当てはめ、不規則な配置については地形の制約、あるいは縄文時代にそこまでは、と思い納得して来たのである。近年、国指定史跡となった青森県小牧野遺跡もまた、真円にははまらない。これについても、山側を切り崩し谷側に盛土をしてまで平坦地を作り出すという、大がかりな土木工事の痕跡の認められることから、円に成りきるだけの平坦地を確保できなかったのだと考えていた。しかし、平成6年に調査の始まった函館市石倉貝塚を見ていると、十分な敷地があるなかで礫の配置が弧を描かずに直線的に延びて行くのである。この時、小牧野遺跡のようだなと思い両者を重ねてみたのが今回の小論のきっかけである。その後、北海道戸井町の浜町A遺跡、青森県三内丸山遺跡、大石平遺跡、上尾駮(2)遺跡、秋田県大湯の野中堂、万座遺跡、高屋舘遺跡、岩手県西田遺跡、御所野遺跡、長野県居平遺跡、栃木県寺野東遺跡、神奈川県大熊仲町遺跡、三重県天白遺跡と図を重ねてみた。いずれの遺跡も立地、あるいは帰属時期によるものか若干方位のばらつきは認められるにしても、縄文尺のメッシュによく納まり、なにか共通のルールに則って造られているように思われた。

2.箱形の重構造モデル

 このなかで、特に小牧野遺跡と野中堂遺跡の相似形に筆者は注目した。これら遺構群の平面プランは円ではなく多角形であり、しかも正の形ではなく長短軸を持つ横長のプランとなるのである。さらに、大石平遺跡、上尾駮(2)遺跡のいわゆる円形広場をとりまく土壙群の配置、西田遺跡の墓壙群の配置もまた横長のプランとなっていたことに気付かされたのである。

 そこで、筆者が考えたモデルが図1である。大きな特徴は中心部に二つの4.2mマスを置き、その周囲を4.2m幅で入りこ状に箱を重ねていくことにより、横方向に長軸を持つ長方形プランとなることである。つまり、環状配置とされる遺構群の中央によく検出される遺構(図1ー0)、これが唯一の中心地点ではなく、遺構として残らない場合も多いもう一つの中心部を、東側に隣接して見るのである(図1ー00)。この中央部分に対するアイデアであるが、その後、栃木県寺野東遺跡について方位をあわせて見たときに、まさにこの形を反映していると見られる石敷台状遺構と名付けられた遺構を中央部分に見い出すことができた。また、縄文尺がまちがいなく生きていることは図2小牧野遺跡の内外帯の幅や特殊組石の位置、図3野中堂遺跡のE24、F31の部分が特に目をひくほか、あらゆる部位に方眼のラインに沿う配置が観察されることからも明らかであろう。

 ここで各図について若干の説明をしておきたい。図1は上記のとおり筆者の考えた構造モデルである。中心部「0」・「00」を囲むA帯は土壙密度が極めて低い。いわゆる円形広場とされるものに相当する。万座・野中堂の内帯はこの中に位置する。配石は主にB帯からD帯に集中し、それぞれの外側には掘立柱建物跡が巡る。土壙・墓壙は概ねA帯からD帯までのなかに納まり、E帯より外側には石倉貝塚のように盛土遺構の築かれる例も見られる。以下、図2からがこのモデルで考えた図となる。図2は函館市石倉貝塚に青森県小牧野遺跡を重ねたもの。図3は秋田県野中堂遺跡に万座遺跡を重ねたものである。ともに中心点「0」から放射状に右上半分が、中心点「00」から放射状に左下半分が構築されるとみられる。図4はこれらの列石に特徴づけられる4遺跡についてメッシュを外し、重ねてみたものとなる。図5から図7は土壙・土壙墓や掘立柱建物跡の配置が特徴的な図について重ねたものである。図5は青森県大石平遺跡、上尾駮(2)遺跡について構造モデルを重ねたもの。図6は岩手県西田遺跡に秋田県高屋舘跡を重ねたものである。図7はこれら4遺跡について重ね、メッシュを外したものとなる。図8については、配石がブロック状のまとまりを持って並ぶとみられる岩手県御所野遺跡と、北海道浜町A遺跡を重ねたものである。なお、全ての図は前述の通り1:420で統一し、方位については図の北方向を20度西に傾く位置に揃えてある。

3.遺構の配置を決めるもの

 以上のように、複数の遺跡について条件を整え重ね合わせてみると、いわゆる特殊組石と呼ばれる遺構や、特異なまとまりを示す部分はいずれの遺跡でも同じような位置、または方角に置かれていることに気付く。何れ共通の目的に沿った所以とは想像されるものの、現時点ではこのことについて説明するだけの十分な材料を筆者は持たない。ただ、図2のベースとした函館市石倉貝塚においては、冬至の日の出と日没の確認が1995年12月22日に行われ、筆者も立ち会っている。この時、日の出の方向から中央部分を通って延長した地点には、周囲よりひときわ大きな土壙群がひとつのまとまりを見せていた。いわゆる掘立柱建物跡とされるものであろう。この時の方位を基にすると、逆に日没の方向から中央部分を通って延長する部分に同様の土壙群の認められる例として図5大石平遺跡ーC7周辺、図5上尾駮遺跡ーD8周辺をみることが出来る。いずれの例も直径0.6m程の柱穴跡を残す土壙が6基程でひとつのまとまりを見せており、掘立柱建物跡の機能を考える上でも非常に興味深い。

 さて、筆者は先に検証した遺跡群について、帰属時期によるものか若干の方位のばらつきが認められると記した。もちろん方位を完全にあわせても図4・7・8にみる通り整合性を失うことはないのだが、それぞれについてメッシュにより良く納まる傾きは、微妙に異なるとも言えるのである。例えば、図6西田遺跡は時計回りに21度、図8御所野遺跡は反時計回りに20度廻した方が方眼のラインに良く乗る。もっとも、今回筆者が置いた反時計回りに20度と言う傾きも野中堂と小牧野の関係から便宜上定めたに過ぎず、本来放射状に配されている遺構群であれば、どのように廻してもそれなりの整合性を持つのも道理である。放射状の配置のあらゆる部分に縄文尺が生きている所以でもあろう。このように、ある角度に置いた時にこれら複数の土器型式をまたぐはずの遺構群がシンメトリーの配置を見せると言うことは、葬制に関わる遺跡は極めて保守的な様相を示すと言うことにほかならない。とは言っても図6西田遺跡の配置では、右半分の中心点が「00」、左半分の中心点は「0」と逆になっており、後期の遺跡群との相違点を指摘することもできる。この帰属時期の違いに関しては、ひとつの場が長期間にわたって使用され続けたためか複数の傾きを見ることの可能な三内丸山遺跡などの存在も頭に止めておく必要があろう。

 以上のように、今少し遺跡ごとに方位を廻してみたいと思わないではないが、今回はあえて筆者の作為を極力廃し、全ての図をスケールと方位を揃えた状態で提示するにとどめ、その図からどのような規則性・法則性を読みとることが可能か、読者に委ねることとしたい。色を塗り分けて重ねた図には、様々な規則性が見いだし得るはずである。そして、もしも各遺跡について方位の違いを見るべきとするならば、それはどのような要因によるものか今後の検討課題としたい。例えば、冬至や夏至の太陽の運行と遺跡の立地との関係などについてである。

4.まとめにかえて

 以上見てきたように、少なくとも縄文時代中期から後期においては、日本列島を貫く計画的で統一性を持った遺構配置の存在を認めないわけにはいかないだろう。そして、おそらくはこの前後の時期にも同様の規則性を見いだし得ると筆者は考えている。中心を二つ持ち、それぞれを基点に配置された遺構がひとつの場を形成する。このことの背後にどのような精神文化が想定されるのか、それは今後の大きな課題となる。担い手としての二つの集団を考えるべきであろうか、それとも陰・陽、明・暗、昼・夜、生・死などの二立背反するものと宗教儀礼との関わりを考えて行かなければならないのだろうか。いずれにしても実証の難しい作業には違いない。

 さて、筆者がここに提示した箱形の重構造モデルは、現在のところ祭祀に関わる配置への摘要が一部で確認されたものの、居住区をも取り込む形でのモデルとして完成されたものではない。居住区域、捨て場、その他の生活空間もまたある規制のもとに配されているはずである。しかし、それは祭礼の場ほどに強力なものではなかったのかもしれない。図1、C〜F帯に配される掘立柱建物跡やその外側、石倉貝塚に見る盛土遺構などの性格を三内丸山遺跡の配置の中から読みとって行くことで、何か見えてくるものがありはしないだろうか。いずれにせよ、遺跡全体に4.2mのメッシュをかけることでこれまで気付かれなかった規則性が見えてくるとすればその意義は大きい。筆者は今回、手元にある図面をスキャナーで取り込み、色を塗り、とりあえず方眼をかぶせてみたわけだが、正確な方位の傾きや中心部の状況など調査担当者であればさらに踏み込んだことが言えると思われる。それぞれの地域でそれぞれの担当者が、図面をまわしつつ縄文尺のメッシュを重ねて見ることを強く願うものである。 

 それにしても、サークル・環状と言う言葉の持つ呪縛は筆者にとって非常に大きなものであった。仮説を持って調査する事で初めて見えてくる事実が多い反面、サークル・環状といった概念を先入観として持ってしまったことで、筆者は目の前のものが見えなくなっていたのである。今回のこのモデルもまた、あくまでひとつの仮説にすぎない。他の可能性を常に念頭に置いて遺跡の実際にあたらなければならないのは言うまでもないであろう。

おわりに

 カラー図版が多用されるため、発表は難しいものと半ばあきらめていた本稿である。雑誌のテーマにそぐわないにも関わらず『動物考古学』に今回、発表の場を得ることが出来たのは西本豊弘氏のご厚意によるものである。また、青森市教育委員会のU氏には整理作業に忙しい中、配石遺構の全体図を分けていただいた。さらに、筆者の安易な思いつきを力強く面白がってくれたS氏、F氏、T氏等、多くの人たちに記して感謝の意を表したい。注:(とりあえず、1998.9月時点の判断ですが、各人の氏名はイニシャルに変更しておきます。)


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