遺跡空間構造の類似性について」
「遺跡」とひとくちに言っても、それは本来貯蔵、水場などを含む生活居住区域、埋葬区域、祭祀空間など多種多様な性格をもった場所の総体として理解されるべきものであろう。
このうち、埋葬・祭祀空間の統合された姿として、石倉、伊勢堂岱などの大規模環状列石を見る考え方が近年有力となってきている。
筆者はこれまでこれらの大規模環状列石について、平面図を基に条件を揃えて比較することにより縄文社会における広域にわたる規格性の存在を考えてきた(参考図)。
確かに、遺構配置図の縮率を420分の1に揃え方位を合わせて比較する方法は、小牧野、万座、野中堂などの環状に閉じた構造を持つ遺構について有効な手法であったと思う。しかし、さらに大規模なキウス、あるいは道と共に土坑墓が延々と延びていくような三内については比較の糸口すら掴めないでいたのである。
ところが、キウスの調査が進む中で、柱穴群が盛土によって囲まれ、そこから北東に延びていく道が在り、そのむこうに土坑墓が位置するという構造が次第に明らかとなってきた。
そこで、縮率を4200分の1に拡大し、三内丸山遺跡と遺跡の空間構造を比較してみようと考えたのである。それが図1である。結果は、両者は土坑墓のあり方こそ違え、構造自体は多くの類似性を示すものであった。確かに、三内丸山遺跡においては、柱穴群を盛土が取り囲みきれてはいないが、試掘調査では西盛土の存在が確認されており、同様の構造を持つ可能性は極めて高いものと思われる。
図を観察して解る事としてはまず、「道」は共に北東から南西に向かい、「盛土」に囲われた空間に入り消失するらしいこと。「盛土」はある特定の方向に切れ目を有しつつも、全体として柱穴群を取り囲むらしいこと。墓域が北東に向かってひとつのまとまりを持つこと。等がある。
次に、この盛土の規模と規格についてであるが、やはり大規模な盛土を持つ栃木県寺野東遺跡のものとキウスを比較したのが図2である。図に見るとおり、計測可能な幅については、両者共に168mとほぼ同等であった。長さについては、キウスでは「道」の消失地点までで189mを測るものの、寺野東については不明である。なお、この計測値についてであるが、小牧野遺跡において筆者が確認した規格、「4.2m」をひとつの単位とした時に、幅が40単位、長さが45単位となっていることを付け加えておきたい。寺野東遺跡が、その東側、三内丸山遺跡やキウスのように土坑墓の位置するはずの部分を吉田用水による掘削、河川の浸食等で失ってしまった事はまったく残念と言うしかない。なお、参考のために函館市石倉貝塚の図も提示したが、その盛土の直径は84mと20単位、これはちょうどキウス、寺野東の半分にあたる。ところで、この寺野東遺跡の盛土の切れる方向にも何らかの意味がありそうである。このことについては、「道」の在り方が重要な要素となると考えている。現時点では、削平部分中央の石敷台状遺構から見たときに、夏至、春秋分、冬至の日の入り方向に「盛土」の切れ目、あるいは高みと高みの間=「鞍部」があたることだけは注意しておきたい。この鞍部の向こうに特徴的な山でも見えれば面白いのだけれども。
さて、「盛土」によって囲われた区域についてであるが、掘建柱建物跡については、三内丸山遺跡において六本柱の建物として一部復元されている。キウス等、住居跡の存在を考えるならば、全ての遺跡に同様の性格を与えることは出来ないのかも知れないが、どのようなものであれ建造物が建ち並ぶ広大な場所が閉じた空間として存在したということは言えるのではないか。儀式儀礼等、祭祀に関わる特殊な空間として機能していた可能性を思う。そして、そこから道とともに、あるいは道の向こうに在る墓域の存在。いずれにしても、巨大な遺跡空間である。その地に立って見る風景はいったいどのようなものであったことだろう。
最後に、それぞれの時代について整理するならば、まず、三内丸山遺跡が前期から中期末葉にかけて、寺野東遺跡が後期前半から晩期前半にかけて、キウス4遺跡は後期後葉に営まれたと言うことである。しかし、それではこれらの巨大な空間使用の類型は、後期から見られる大規模環状列石によって成る空間とどのように関わるのであろうか。図2にみるとおり、函館市石倉貝塚遺跡もまた「盛土」によって囲われた特殊空間ではあるものの、その規模や配石遺構の在り方等異なる部分も多いと見られる。今後の課題として考えて行きたい。なにしろ、縄文びとの心に迫る研究はまだ始まったばかりなのである。
なお、今後、遺跡の全体的な性格等を考えていく際には、模式図や概念図のみに拠るのではなく、具体的な事例についての縮率、方位等を揃えた図の提示こそが最低限必要であることをあらためて強調しておきたい。