2000.7.10
平成14年開催を目指す。
「日本(ひのもとの)中央碑」
ー 発見半世紀まつりー
基本構想と関係資料
東北町教育委員会社会教育課
永らく、古代東北に稲作の存在を認めようとしなかった「力」がかつて在りました。
東北の歴史を考える時、未だこの力は健在だと感じるのは私だけでしょうか。眼前に、或いは私たち自身の内側に、常に負のエネルギーとして現れる「力」としてそれは意識されます。
極端な言い方をするならば、「文化」は中央より恵みもたらされるべきものとし、化外の地、東北に優れた文化のあろうはずもなく、またあってはならないとする「力」です。私たち自身の内側においては、「どうせ、こんなところ」と言うことばで立ち上ってくるものです。
しかし、実際はどうだったのか。
稲作の起源はさらに遡り、「縄文の文化力」は今や世界の認めるところです。
東北の文化は正しくその流れの中にあるはずです。「蝦夷(えみし)」もまた、この流れの末にあり、さらには、現在の我々が在ると考えてみたいのです。
さて、平安の東北です。征夷が平安京建設に並ぶ国策の柱とされたことについて思うのです。実際のところ、征夷は蝦夷が蛮族か否か、悪を為したか否かに依ったのではなく、蝦夷が中央とは異なった精神的ものさしに依っていたがために行われたのではなかったか、と。
しかも、それが文化的水準の低くない人々であったにもかかわらず、です。なによりもそのことこそが真に都人(みやこびと)にとっては驚異だったのではないだろうか、と。
彼等はそこに縄文以来の伝統を、都の文化とは異質なものとして、本能的に畏れたのかもしれません。
本質的に異なる、決して相容れないものとして。
(ほんとうは、単なる実益的な理由に拠ったのかもしれないけれど。まあ、それはそれとして。)
今日、多くの人々は現在の自然観・世界観を補うものが古代東北に在ることを予感しているように思えます。古代史・考古学がブームと呼ばれるほどに熱い関心を集めるのは、今に足りないものを人々がそこに見るからではないでしょうか。
縄文に、古代東北に帰れと言うのではありません。ただ、正しく知ることが大切なのです。
まつろわぬがゆえに「正史」にのみこまれ消えていった、古代東北びとについて。
現代に生きる東北人として、それはもはや責務とさえ言えるのではないでしょうか。