1994年に書いた雑文です。


 明美遺跡調査の経緯(なぜ掘ったか、どうしてまだ掘ってるか。)


   

 発掘調査を仕事とするようになって、随分多くの竪穴住居跡を掘り、図面も書いた。

 それが、たったひとつの竪穴住居跡と関わってもう20年を越え、まだ掘り終えず、検出した床面には雑草が生い茂る。これはいったいどうしたことなのか。

 そもそもは中学生である。この頃、いわば冒険・探検じみた興味から、あるいは純粋に大昔の人々の生きた証を手にした時の感動からだったか、田中探検隊長とふたりあちこちの畑を巡り石器を集め土器を拾っていた。面白半分、真面目だって半分に。

 そして、爺さんの山だ。母方の祖父の残した雑木林。この近く、よその土地に重機が入ったことがある。ここで田中隊長が土器を見つけた。初めて見るコンクリートのような土器。須恵器と言うものだった。大甕だったろう。まだないかとあたりを探し、爺さんの山に入るとはっきりと落ち込みが見える。埋まり切らない平安の竪穴住居跡。ほかにもいっぱいある。

 ところで、完全な形に復原できる土器は、そう見つかるものではない。中学生の私たちだったが盗掘という言葉は知っていたし許しがたい行為だと思ってもいた。だがしかし、自分たちのはそれではないと勝手に決めていた。何となれば私たちには遺物の所有欲はなかったし、ただどんどんくっつく土器があれば面白いので、でもそのためにスコップを使うことなんてなかったし、と。

さて、何日かあって。身内の土地なら良かろう、私たちだけで調べてみようとなった。

 とても乱暴な考えだった。今思えばだが。父に同行してもらい、いちばん大きな落ち込みのどまん中にスコップを入れたのだ。中二の夏だったか。50×50程の大きさで40cmも掘り下げると焼けた面がでた。この時開けた穴は中央よりややかまど近くの床を抜いていた。遺跡にとって幸いだったのは、遺物がたいして見つからなかった事と、私たちがどういうわけか焼けた床面を見ただけで満足し、それ以上スコップをふるう気力を持たなかったということだ。単に疲れて面倒臭くなっただけとも思えるが、なんにせよその後10年、丸太小屋建設までこの雑木林は忘れられることになる。

 そして、今から10年前、かねてよりログハウスに憧れいつかは自分たちで作ってみたいと思っていた私に叔父が木をくれた。ほんとうのところすぐにどうなるものでもないと思い安心して夢のなかにいたのだったが。突然、20年ものの杉の立ち木が200本程自由になる。一年目、木を倒し、皮を剥く。気が付いたら父の方が夢中になっていた。二年目、小屋はみるみるできてしまう。私はその一割も組んだろうか。そして、これを爺さんの雑木林に置こうとなったのだ。すでにこの時、田中県文化財パトロール員がここを明美遺跡として台帳に記載していたこともあり、見ただけで竪穴住居跡とわかる落ち込みは慎重に避けた。基礎は電柱の打ち込みとした。こうして、一軒目の丸太小屋は完成した。

そこは素敵な場所になった。夏、ナラやクリ、くるみの木の下みんなが飲み、食べた。

 火の周り輪になって飲み食いすれば楽しい話が生まれる。8年前のある日、あの大きな住居を一軒掘ってみようかとなった。調査は私、田中繩痕会若頭、黒川くん、長崎職員、小田川繩痕会構成員、瀬川繩痕会会長。もっと誰か引っ張ってこよう。日曜発掘だ遊べるぞ。完掘したら柱穴どおりに柱を立て平安の住居を復原してみよう。これはしばらく遊べるぞ。楽しめるぞ、と。

 こうして発掘は始まった。こんどはちゃんと届も出して。

 ところが、住居の大きさは私たちの予想を越えていた。9m四方を越える大きな住居ともなれば土量もきつい。少なくとも真面目に集まる2〜3人では簡単にいかないボリュームだ。最初にちょっと考えれば、一軒の住居を掘り上げるのに延べ人数がどれぐらいで、くどいようだが真面目に集まる2〜3人のそれぞれにかかる負担が如何程かぐらいすぐに判りそうなものだった。しかし、なにしろ飲みながら決まった話である。実に簡単に事は始められたのだった。もっとも、調査自体もビール片手の至極アバウトなものではあったが。そんな調査でも何回かするうちには住居の全体像も見え、口縁部を欠くだけの須恵器の壺も見つけた。みんな仕事を持ちながらの日曜発掘は少しずつだけど、しかし確実に進んではいたのだ。このときまでは。

 埋文センターは補助員で4年までは在籍できる。しかし、それまでだ。私は自分の、いや、この時は自分たちのこれからをなんとかしなければならないところに居た。ちょっとじたばたしてみたが、裏目が出る時は出続けるものだ。そして「も、ど−でもいいもんねひとりなら好きなことしてたって飯だけは食えるもんね」的虚脱感の中、郷土館でアルバイトしていた時だ、蝦夷地で正職で発掘ができると言う。すかさず乗った。この時は「わし、も、知らんけんね。後は任せたけんね。」と思ったわけではなかったのだが、結果的に住居は全面的に田中遺跡調査担当キャップに委ねられる事になった。その後、調査は田中キャップたちの手で少しずつ進められて行った。一軒目の成功に気を良くした叔父や父はと言えば、二軒目の丸太小屋を建て、湧き水を使い池を作り魚を放す。雑木林は「由蔵の森」と名付けられていた。1991年夏、ここでちょっとしたイベントが行われた。大勢の子供たちを集め1泊2日の繩文生活体験キャンプだ。この時4分の1スケールの竪穴住居が復原された。平安の遺跡に繩文となったのは、単にその方が分かりやすいからだ。

 仕掛け人はもちろん田中レクリエーション係だ。子供たちはこの日、この森で、ゲームボーイは手放さないものの確かに繩文人になった。いつか彼等の中から遺跡の発掘に手を染めてしまう者が出ないとも限らない。さて、1994年お盆の里帰り。後はかまどの調査を残すばかりの住居床面には雑草が生い茂る。その一方、丸太小屋近辺では父が”あずまや”を組上げ、池にはイワナやヤマメが泳ぐ。私たちは、この夏何年かぶりの発掘をした。前代未聞の住居床面の草刈りから始めて。でもまだ終わらない。週一回の発掘が年一回になりそうな今、いつになったらほんとうに堀り上がり報告できる日がくるのか、何とも言えないものがある。しかし、桁外れに大きな調査が全国的規模で続くこの頃、そんな発掘もあっていいかなと思ったりもするのだ。もしもあなたが、こんな発掘に参加してみたいと思ったら、どうしてもとまで言うのなら、特別に仲間に入れてあげる。避暑地の発掘、冷えたビールにイワナの塩焼き、家族連れ大歓迎。宿泊無料。草刈り鎌、移植ベラやスコップ有り。後はちょっと働いてもらえれば。

    


 1996年、蝦夷地から戻ってきました。そして、まだやってます。